空飛ぶゾウと絵描きと私

  

 これは子どもの夢だ。
 本気で見ていた夢だ。

 

   空飛ぶゾウと絵描きと私

 

 私には他人の記憶が視える。
 なぜかは知らない。ここに来てすぐ、金髪の女性から(やたらテンション高く)説明は受けたが、風音の疑問を解消するものではなかった。
 むかし病気で死にかけたとき、特殊な細胞が反応して、そのおかげで助かったし不思議な力も手に入れました! ……これで納得するのはよほどの能天気か超人に違いなく、残念ながら風音はそのどちらでもなかった。
 なぜ、千里眼なのか。
 こんな力がなければ、きっと家族は壊れずに済んだのに。
「……」
 もう過ぎたことだ。今の風音には新しい生活がある。
 風音を助け出した李紅元という男は、異能者の自由と独立のために働いているという。表の顔は若き人権活動家。その正体は、権力者を引き摺り下ろす罠を巡らせ、軍隊にも匹敵する武器を貯え、虎視眈々と反逆の時を待つ巨大犯罪組織の首領。
 あの優しく微笑む義父が自分の正体を明かしたときでも、風音はさして驚かなかった。初めて会った瞬間に、彼の目的は把握している。その上で彼の手を取ったのだ。少なくとも、彼は風音の敵ではなく、風音の力を必要としてくれた唯一の人だったから。
 だからこそ、風音は自身の能力を研ぎ澄まさなければならなかった。風音は組織の眼球とならねばならない。そうでなければ、ただの非力な女の子でしかない。能力のないものは切り捨てる。非情だが、これが組織のルールだ。
 別に風音でなくてもよかったのだ。たとえ風音が虐げられていても、異能力がなければ李は助けに来なかった。李は「風音」ではなく「千里眼」を助けた。これを悲しいと思うのは自分本位が過ぎる。人間は損得勘定でしか動けないのだから。
 ここで生きるためには、自分が唯一持っている能力を強化し、有用性を知らしめなければならない。風音が風音でなくてはならない理由を、自らの手で組み上げねばならない。
 出会う人すべての記憶を追いかけた。情報量の多さに脳の容量が間に合わず、吐くこともあった。心臓を掴み込まれたような恐怖に、泣いたこともあった。耐えられたのは捨てられる恐ろしさを知っていたから。その恐怖に比べれば胃酸の苦さも心臓の幻痛もたいしたものではないと思ったし、実際しばらく耐えていれば痛みにも鈍感になったのか慣れてしまった。

 その日は、赤く燃える街の上で、桃色のゾウが耳をはためかせ、暗く厚い雲の浮かぶ空を悠々と舞っている映像を、誰かの記憶の狭間に見た。
「……」
 なんだこれは。というか、誰の記憶だ。
 あれは恐らく、絵だった。というのも、空の雲と地上の炎は写実的なのに、空飛ぶゾウだけはどうにも作り物じみていたから。下手なわけではなく、デフォルメされた絵本の挿絵を参考にしたような曖昧さと、不釣り合いに神経質で繊細な筆遣いが、そのゾウの異質さを嫌に際立たせていた。
 画家のサインが描き込まれる。

『ボリス・クズネツォフ』

 ファーストネームは聞いたこともなかったけれど。
 最近組織に入った新入りが、確か似た名字だったような。しかし、あの記憶の中の絵とその人物のイメージはどうしても結びつかない。
 空飛ぶゾウは風音の前に飛び出して、重さを感じさせることなく、くるくる頭上を旋回したあと、どこかへ飛んでゆく。
 追いかけるべく、風音は駆け出した。
 たどり着いた先は、碧と白の世界。
 
『見えないよ、○○○』

 顔を覆って蹲る青年は、やはり誰かに似ていた。

『色がないんだ、あんなに鮮やかだったのに、今はもう碧しか見えないんだ』
 呻くように、呪うように。
 青年は風音を──正確には、風音が記憶を覗いている誰かを──燐光を放つ涙を流しながら、睨んだ。
『どうして? もっとよく見たいと願っただけなのに』
『戦争が終わっても、もう絵は描けないよ』
『どうして僕から色を奪ったの?』
『……ユーリ……』

「……何の用だ、クソガキ」

 急速に意識を引き戻される。風音が立っていたのは廊下の真ん中で。目の前にいたのは、記憶の中で呻き声を上げていたあの青年と同じ姿の、あの青年に名を呼ばれていた男。
「ユーリ・クズネツォフ」
 間違いなく、彼の記憶だった。彼の記憶に彼自身が映っていた謎は残るが、そもそも彼自身が謎に満ちた存在なのだからさしたる問題ではあるまい。
 「碧の瞳」という結晶の意識。
 「人」ならざる異能者。
「何の用だって聞いてんだよ。答えろ」
 答えろといわれても、用なんてなかったのだから答えようがない。だからといって、答えないでいても機嫌を損ないそうだったから、聞いてみた。
「あなた、絵は好き?」
 ユーリは一瞬だけ、目を見開いた。その眼球に恐怖のようなものが過ぎったのは、気のせいではなかったはずだ。
 カツ、カツとこちらに近づき、ユーリは動けずにいた風音の口を覆うように顔を掴んだ。
「何を視た?」
 風音は答えられなかった。間違えたのかもしれない。怖くて動けない。
 しかし、負けるものかと睨み返す。謝るのはごめんだった。だって視たくて視たんじゃない、不可抗力に眼の前に飛び込んできたのだ。風音は悪いことはしていない。気には障ったかもしれないけど。
「美術館に行く話をしていたのですよ。貴方もいかです? ユーリ」
 優しい声が風音を救った。風音を救ってくれた義父の、妖しい力を持った声。
 李は風音の後ろから二人に近づいて、「突然走り出すから驚きました」と笑った。
 頰からユーリの手が離れる。納得はしていないが、首領と争う気にもならない。李が掛けるのはそんな魔法だ。
「絵は好かねぇな」
「残念です、ではまたの機会に。風音、行きますよ」
 そう言って手を引く彼に自然な流れで抱き上げられた。もうそれなりに大きくなったのだから一人で歩ける、といつもなら抗議するところだが、今回ばかりは動けずにいたので密かに感謝した。
 李の肩越しに見えたユーリは、口の動きだけで「クソガキが」ともう一度吐き捨てた。
「さて、ユーリにああ言った手前、このまま美術館に行くしかありませんね」
「えっ」
 可笑しそうにそう言った李と目が合う。
 あの場限りの嘘だと思っていた。
「嘘をつくのは感心しませんから。それに、たまには家族サービスもなくては、風音に愛想を尽かされてしまいますからね」
 悪戯っぽい目は、いつかの両親みたいだと思った。
 いや。それよりも本当に、この人は自分を家族だと言ったのか。
「……何かおかしなことを言いましたか?」
「私は、李さんの眼でしか」
「確かに貴女の千里眼は魅力的です。その眼に惹かれたのも事実ですが、貴女が見ず知らずの私に自らついてきてくれたことこそ、私は嬉しい。貴女はもう十分に、私に幸福を与えてくれているのですよ」
 風音は困惑した。まだ何もできていない。まだ何もさせて貰っていない。
 それでも良いって、それではまるで、李が本当に私のことを思ってくれているみたいじゃないか。
 私が李を選んだのは、ただ、両親に見切りを付けた結果でしかなかったのに。
「『あの状況では私についてくるしかなかったから』だとしても、こうして手を取り合ったからには、私は貴女たちを幸せにしたい。ちょうど考えていたのです。どうすれば風音を楽しませてあげられるか。風音はどこへ行きたいですか? 今日は美術館に行くとして……」
 私が積み重ねてきたものは、すべてあの家に置いてきてしまった。私に残っているのは自分の未熟な身体と、千里眼しかない。
 それでも李に応えたかった。
「……李さんの行きたいところへついていきたいです」
「欲のない子ですね。いいでしょう、私が風音に見て欲しい場所、すべてお連れします」
「そして、最後には、」
 これは、ここへ来てからというもの、李が常々語って聴かせてくれた夢だ。

「争いのない、私たちの国に連れて行ってください」

「……ええ。ええ、必ず。お約束します」
 李は口元だけで静かに微笑んだ。



 その国でなら、風音も、李も、呪いに苦しんでいるあの碧い瞳も、涙を流さずに済むはずだと思うから。
 どんな国になるのだろう。きっと異能者が自由に能力を使えるから、みんな自分に自信を持てるし、だから、争いなんて起こらないはずだ。空を飛べる異能者がいるくらいだから、空飛ぶゾウがいたって、おかしくはないのかもしれない。空は碧くて、ゾウは桃色ではなくて、そんな光景を見たら、ひょっとしたらあの絵描きはユーリを許して、ユーリも笑ってくれるのではないか、なんて。

 そんな子どもの夢を、私たちは今も本気で追いかけている。

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