第5話 ベアトリクス・ノーチェス

 一旦テントに戻った桜は、レコーダに記録された音声を理仁、十兵衛とともに聞き返していた。
『アンジュ、落ち着いてあたしの名前を言ってちょうだい』
『111010110100110100111110010110010000110110111100010111111000100100110000101000010110111110111100011010』
「〇と一しか言ってないじゃん。何語、これ?」
 十兵衛が桜に訊ねる。桜は「アタシが知るわけないでしょ」と若干むくれたように返す。
「今日まで、っていうか、この直前までは普通に喋ってたのよ。それが研究室に戻ってきたらこの有様。別れてから数分の間に、なにかあったとでもいうのかしら?」
「アンジュの様子はどうだったんだ。音声だけではわからない」
 理仁が桜に訊ねる。桜は首を傾げながら答える。
「んー、自分が一番なにもわかってないって様子だった。本人はちゃんと喋ってるつもりだったんだと思うわ」
「ミーナの様子は?」
「取り乱してるようだった。けど、なにか知ってる感じもしたわね」
「そうか」理仁はそのまま思案する。

 あの後、ミーナは「このことはここだけの秘密にして。帰って」と桜にきつい口調で言い残し、アンジュの手を引いて研究室を出て行った。黙って付いて行こうとしたところを他の研究員にばったり出くわしてしまい、不審がられて身分確認を受けたため足止めされ、結局二人を見失ってしまったのだ。

 桜は「ごめん、アタシのポカのせいで、見失った」とばつの悪そうな様子で理仁達に謝罪した。
 それに対して理仁は首を振った。「仕方がない。オレこそ潜入だなんて危険な役を押し付けて済まなかった。桜が無事でよかった」
「それこそ仕方ないわよ。理仁は目立つから潜入なんて無理だし、十兵衛はそもそも子どもだし」
 桜は、良くも悪くも目立つ、長い黒髪と仄かな緋色に輝く金色の瞳の美しい男と、前髪をくくって形のいい額をさらけ出している活発そうな少年を見やってそう言った。
 十兵衛は不満げに頬を膨らませ、「オレだってもう少しすれば潜入でもなんでも引き受けるぜ?」と抗議した後、表情を引き締める。
「で、問題はアンジュさんとよく一緒にいるミーナさんって女の人だけど。とりあえずアネキが研究所でくすねてきた資料から拾った情報で聖さんにも協力してもらって検索かけたけど、結構有名な大学を飛び級で出てるってこと以外なーんにも出てこなかった」
「なにも?」
 理仁が十兵衛を振り返る。十兵衛は頷く。
「戸籍も、病院のカルテも、Sn細胞検診結果も、なーんにも。ほとんどの情報が偽物です。どういうわけですかね?」
「で、そのミーナがアンジュちゃんを引き連れてどっか行っちゃったと。もうちょっと、ミーナの情報が欲しいわよね」
「調べる必要があるな。……少し出掛けてくる」
 理仁はそう呟くと、そっと目を閉じる。
 どこへ、とは言わなかったが、桜も十兵衛も彼がどこに向かうのかはわかっていたのでなにも言わない。
 彼はどこへでも、自由に飛べるのだ。
 桜と十兵衛は、そっと彼らの魔王陛下を見守った。

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 玉座に腰掛けうつらうつらとしていた寒凪かずらは、来客の気配に気づいて顔を上げる。
 そこにいたのは、かつての戦友であり、今でも自分を慕ってくれる年下の青年。
「久しぶりだな、ベアトリクス。……ではなく、今は寒凪かずらだったか」
「おお、リヒト! ベアトリクスで結構です。その方が呼びやすいでしょう?」
 寒凪かずら――ベアトリクス・ノーチェスは、理仁の急な訪問を待っていたかのように歓迎し、静かに微笑む。
 彼らはかつて、戦場で巡り会った。そのときは敵同士だったが、戦争が終わった後、再会したときには背中を預け合う仲間となった。
 その後、仲間達は解散して世界に散ったが、この二人はしばしば、この夢と現の狭間の空間で面会している。
「それで、今日はいかがなさったのです? 困っていらっしゃるからこうしてこの辺境の地まで見えたのでしょう?」
「貴女も知っているはずだ。オレはある少女と約束をした。その少女のことを知りたい。できれば、その少女とともにいる、女性のことも」
 理仁は短く、全知全能の異能者〈白銀の脳細胞〉に情報を求める。
 ベアトリクスは微笑みを絶やさず、理仁の実に曖昧な問いかけに浪々と答える。
「アンジュに関しては、貴方の考えている通りです、リヒト。彼女はもうすぐ消えることになる。このままでは、以前と同じことを繰り返すことになります」
「彼女は何者なんだ? 何故消えなければならない? 今、どこにいる?」
「完璧なものなど存在しないのです。彼女もまた、完璧ではなかったというだけのこと」
「解せない。確かに完璧なものなど存在しないとしても、彼女は完璧に近づけるはずだ。どうして五回も同じことを繰り返していて修正されない?」
「それこそ、彼女とともにあるミーナが仕組んだことだからです。アンジュは今、一人で悪しき者達の監視下に置かれています」
 理仁は眉根を寄せる。「仕組んだ?」
「時間稼ぎのためです。ミーナは強力な武器をもって世界を敵に回そうとしています。かわいそうな子。彼女は、その心に秘めたる熱き思いに灼かれているのです」
「……復讐がミーナの目的か」
 理仁が低い声で呟いた。
 ベアトリクスは胸に手をあてて、悲しげに顔を伏せる。
「その通りです。その思いに囚われて、彼女の魂は悲鳴を上げています。リヒト、貴方が救うべきはアンジュだけではありません。ミーナをも救済しなければ、七回目のアンジュが生まれることになるでしょう」
「なるほど」
 理仁がもう一つ質問しようとしたとき、背後に暗い気配を感じて咄嗟に飛び退る。
 理仁が経っていた場所の空気を、鋭い手刀が両断する。
 青みがかったシルバーフレームの眼鏡をかけたスーツ姿の男が、目元を険しくして理仁を見つめる。
「貴様、どこから侵入した?」
「友よ、おやめください! 彼は私のかけがえのない友人なのです」
 ベアトリクスが玉座から立ち上がり声を上げるが、彼女を守ることを使命とする男は耳を貸さない。
 理仁はふう、と息を吐いて、ベアトリクスに目を向ける。
「ここまでのようだ。ありがとう、ベアトリクス。また会おう」
「待て!」
 男が飛びかかろうとする前に、理仁の姿は搔き消えた。
 男は忌々しげに舌打ちする。
「寒凪様、今の男は……」
「私の友人ですよ。私と同じ、その身に宝石を抱える人間の一人」
 男の問いかけに、寒凪は腰掛け直すと楽しそうに微笑んで答える。
「しばらく、彼の気配に気づかなかったでしょう? 彼は優秀なのですよ、ヘル・ヤナイ。落ち込む必要はありません」
 柳内恭一専務取締役は眉間に皺を寄せる。
「寒凪様、困りますな。このような勝手な行動をなされては」
「友よ、貴方がたは私をこの檻に閉じ込めたまま、私の大切な友人とのささやかな会談すら許してはくださらないのですか?」
 寒凪が大仰な仕種とともに悲しげに訴える。
 柳井は戸惑ったように「そういうつもりでは……」と弁明する。
 すると、寒凪はころりと表情を変えて、
「冗談ですよ。友よ、私はこの状況に感謝しているのです。もう私は戦いに関わりたくはない。しかし、他方で、戦いに関わる友人が困っているのであれば、手を差し伸べたいとも思うのです。我侭だとは重々承知しています。どうか勝手をお許しください」
 そう言って微笑んだ。
 柳井は深い溜め息を一つ吐く。この少女を御することができる人間など存在するのかと、頭を抱えたくなった。
「……御友人に手を上げたこと、お許しください」
「あの程度でどうにかなるほど、私の友人は柔ではありません」
 寒凪は微笑みを絶やさずに続けた。
「また近いうちに現れるでしょう。そのときは貴方に同伴を求めます。それで許しては頂けませんか?」
「承知いたしました」
 柳井はそう言って頭を深々と下げてから、その場から消えた。
 暗い空間に、寒凪だけが残された。

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 理仁が目を開く。
 桜と十兵衛の二人が、彼の顔を覗き込んでいた。
「どう、〈白銀の脳細胞(ベアトリクス)〉さん、なにか言ってた?」
「アンジュは研究所の監視下にある。ミーナの目的は復讐だ。アンジュを助けるためにも、ミーナを止める必要がある」
「え、待って、ちょっと理解が追いつかないんだけど。復讐って何の?」
「オレもそこを聞こうとしたところで邪魔が入った。しばらく彼女に会いに行くのは無理だろう」
 理仁が桜の言葉に静かに答える。
 十兵衛が険しい表情で呟く。「なんか、謎が謎を呼んだだけのような……」
「どうせ彼女(ベアトリクス)はいつも通りもったいぶって、はっきりと物を言うことはないだろう。それより、ミーナが間違いなく重要な参考人であることがはっきりした。それだけで十分だ」
 十兵衛は二人に指示を出す。
「桜は研究所に戻ってミーナを追ってくれ。十兵衛にはミーナの正体を突き止めて欲しい。頼めるか?」
「了解です」
「わかった。理仁はどうするの?」
 二人は頷き、桜が問いかける。
 十兵衛は「ふむ」と顎に手をあてて、「オレはアンジュと接触できないか試してみる。監視があるだろうが、なんとか搔い潜ってみよう」と答えた。
 三人はテントから出て、それぞれの目的地に向かって歩き出す。

 二〇一四年三月二十九日、午後十時四十五分の出来事だった。

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