第10話 普通じゃない人間

 聖は十兵衛の身体に異常がないことを確かめると、「はい、ご苦労さん」とあっさり少年を解放した。
 十兵衛は服を着替えてから、「わざわざすみません」と頭を下げた。
 聖は手をひらひらと振って、「そりゃ構わないんだが」と苦笑した。
「お前の保護者は心配性だからな」
「本当ですよ、魔王様のおかげで簡単には死ななくなったのに。聖さんも変だと思うでしょ?」
「……まあ、だからこそ、じゃないか?」
 聖は突然神妙な表情を浮かべて十兵衛を見やる。
「お前が簡単には死ななくなったから、逆にいつ無茶をするか心配になるんだよ。理仁と違って、お前は死なないわけじゃない、普通の人間よりちょっと死ににくいだけだ。能力を過信して無茶をすればすぐに壊れるぞ」
 十兵衛も神妙な面持ちでそれを聞いて、こくりと唾を飲んだ。
 この身体は死ににくい。それでも、回復能力を超える損傷を受ければいつかは壊れるだろう。
「そうですね、せっかく魔王様に拾っていただいた命、大事に使います」
 自分に言い聞かせるようにそう答えた。
 聖が苦笑を浮かべて頷く。
「そうしてやれ。理仁も桜も、お前が怪我をするとうるさい」
 十兵衛はもう一度聖に向かって礼を言い、彼のテントから出て行った。
 自分のテントに戻ると、十兵衛は荷物をまとめて部屋の隅に置いておいた。理仁たちがアンジュを救出するのと同時に、他の一座のメンバーは一旦国外に脱出する予定だ。脱出するメンバーの手間にならないよう、救出作戦に必要な道具をいくつかまとめて、残りの荷物は衣装ケースに、几帳面に隙間を作らないようにしながら押し込んだ。
 荷物を増やさない性格の十兵衛の荷造りはほんの一〇分ほどで終わってしまった。
(さて、どうしようか)
 少し考えて、理仁のところに打ち合わせに行こうと思い立つ。
 十兵衛は入口をくぐって、薄暗くなり始めた外へ出た。


「あれ、十兵衛も理仁のとこ?」
 道中、同じく理仁のテントに向かおうとしていた桜に出会った。
 頷くと、「じゃ、一緒に行こ」と言って当然のように横に立つ。
 自分より頭三つ分ほど高いところにある彼女の横顔に、(オレはまだまだだな……)と内心でため息をつく。
「大事じゃなかったでしょうね?」
「たいしたことないよ。鉛玉なんかでどうにかなるもんか」
「そーね。でも気を抜くんじゃないわよ、あんただって無茶したら死ぬんだから」
「それ、聖さんにも言われた」
 そう言うと、桜はなんとも言えない表情を浮かべたので、十兵衛は吹き出す。そんなに聖と同じことを言ったのが嫌なのか。
「なによ。なにがおかしいのよ、十兵衛のくせに生意気」
「理不尽だなあ」
 そのまま無言でしばらく歩く。理仁のテントは有事の際にすぐに団長と打ち合わせができるように、敷地の奥の方に設置されている。十兵衛と桜のテントはその反対側、有事の際にすぐに出動できるように、入口近くに設置されている。自然、歩く距離もそこそこ長くなる。
「あのさ」
 なにも言わない桜との時間をそれなりに楽しんでいた十兵衛に、桜が話しかける。
「なに?」と答えると、桜は言い出しにくそうに目を逸らしたあと、すぐに腹を決めたように十兵衛に向き直る。
「自分が人間じゃないと気づいたときって、普通はどんな気分なのかな、って思って。いや、どっちかというとアタシの方が近いのかもしれないけど、アタシはほら、ショックのベクトルが別方向に向いてたからさ」
 十兵衛は「ははあ」と得心がいった。口には出さないが、おそらくアンジュのことを指して言っているのだろう。
「これは、オレの場合ってことで、一事例として参考にして欲しいんだけど」
 十兵衛はそう前置きして、自分が「普通の人間」から「普通じゃない人間」になったときの出来事に想いを馳せた。

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 十兵衛の、というより、彼が十兵衛になる前の少年の実家は、貧しかった。田舎にある1DKの古いアパートに母親と二人で暮らしていた。父親の顔は知らなかった。
 母親は夜になるとなにも言わず出て行き、明け方になってなにも言わずに帰って寝て、昼過ぎに起きるという生活パターンだった。
 少年は、自分の知らない世界で母親に染み付いたアルコールとタバコのにおいが、生理的にはあまり好きではなかった。しかし、それは母親が生きるため、少年を生かすために必死で働いていた証拠だと思うと、そのにおいも母の匂いだと、優しく感じられた。
 少年の一日は、朝、帰ってきた母親を横目に起き出して、母親の昼食と自分の朝食のために味噌汁を作ること、昨日のうちにタイマーをセットしておいた炊飯器を開けてしゃもじで一混ぜし、ご飯に空気を含ませること、その日の冷蔵庫の中身によっておかずを考えて作ることから始まった。
 一人で朝食を済ませたあと、母親を起こさないように家の掃除をする。母親が起きてまず入る風呂場をきれいにし、次にトイレ、玄関。母親が気持ちよく暮らせるように丁寧に掃除をするのは大変だったし、少年の手では届かないこともあったが、手間とは思わなかった。
 それが終わるころになると母親が起き出してきて、なにも言わずに風呂場に入っていく。シャワーの音を聞きながら、少年は自分たちの布団をベランダに干して、寝室の掃除をした。
 母親が無言で食事に手を付け始めると、少年は脱衣所に脱ぎ散らかされた衣服を洗濯機に入れるものと手洗いするものに分けて、手洗いするものは洗面台に水を張って手洗いした。最初、なにもわからず洗濯物すべてを洗濯機に放り込んだところ母親にひどく怒られたのでこの分別は重要だった。
 母親は朝食を食べ終えると部屋でテレビを見始める。少年はそんな母親が置きっ放しにした食器類をシンクに運んで、こっそりと洗い物をする。これもまた以前、水の流れる音がうるさいと怒鳴られたので、水を流すときは慎重になった。
 それが終わるとやっと自由時間で、少年は母親に一言、「外に行ってきます」と声をかける。返事はないが、いつものことなのであまり気にせず外へと飛び出す。
 少年が外に出ると、近隣に住む老人が不審そうな目を向けていたが、これもあまり気にすることなく、その日の気分のままに裏山や公園や、ときには図書館に遊びに行った。
 夕暮れになると、家に戻る。母親は夕食は外でとるため、味気ない食事を自分一人のために作る気にもならず、適当な菓子パンをかじって済ませた。
 母親は少年になにも言わず、さっさと煌びやかな衣装に着替えて家を出て行く。少年は布団を取り込んで、母親と自分の布団を横に並べて敷くと、一人布団に潜り込んでそっと目を閉じる。
 少年の世界は、これで完結していた。

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 八歳のある夏の日、少年は裏山に来ていた。
 セミの抜け殻を見つけて、持って帰ろうかと思ったが、虫嫌いの母親が良い顔をしないだろうと判断してやめた。
 その代わり、いいものを見つけた。
「お花……」
 その花は、去年起きた土砂崩れが中途半端に処理されたあと放置されたまま、足場の悪くなっている岸壁に咲いていた。
 花なら、母親も喜ぶかもしれない。
 手を伸ばせば届きそうだと、少年は地面に体を預けて手を伸ばす。
「もう少し……」
 そう呟いて身を乗り出したとき、ずしりと、嫌な音がした。
 身体が宙に投げ出される。岸壁へと続く地面が少年の重さに耐え切れず、崩れ落ちたのだ。
 このときの少年にはなにが起こったのかわからなかったが、危険だということだけは本能的にわかった。
 しかし落下する身体をどうすることもできず、少年は土や石とともに地面に叩きつけられた。


 ――どれくらい眠っていたのだろう。
 意識が戻ったとき、空には月が昇っていた。
 身体を持ち上げようとして、思うようにいかないことに気づく。
 少年には見えなかったが、身体のそこかしこが潰れていた。
 少年は頭に滝のように流れ込んでくる痛みと、本能的にわかる、迫り来る死という恐怖に、涙が頬を伝う。
 そして母親のことに思い至る。
(お母さんに心配かけちゃう……)
 起きなければ、起きろ、起きてくれ、頼むから起きて、お願い……

 帰りたいんだ。

 その一念が、魔王には届いた。

「可哀想に……」
 暗闇から現れたのは、一人の男。
 男は少年の傍に膝をつき、頬の涙を拭った。
 少年は、暗闇の中でその男の顔を見ることはできなかったが、金色の眼が緋色に輝いていて、空に浮かんだ少し端の欠けている月と合わせて、三つのお月様だとぼんやりと思った。
「……帰りたいのか?」
 男が訊ねる。少年は迷うことなく頷こうとして、頭が動かないことに気づく。その代わりに眼を瞬かせて肯定の意思を伝えた。
 それは伝わったらしく、男はしばらく考え込んでいたが、どこか悲しそうな表情で口を開いた。
「生きて帰っても、幸せだとは限らないぞ?」
 少年には意味がわからなかった。
 家に帰る。それは少年にとって当たり前のことで、母親も、このまま帰らなかったらきっと心配する。
(帰りたいんだ……)
 じっと男を見つめると、その意思が男に通じたのだろうか、おそらく通じたのであろう、男は外套で少年の身体をそっと包んで抱き上げた。
 痛みは落ち着くことはなかったが、心地よい腕の温もりに、少年はそっと目を閉じた。


「これからあなたに施術するのは、Sn細胞の移植だ」
 どこかの暗い部屋に連れ込まれ、ベッドに寝かされた少年に、男が囁く。
 Sn細胞。移植。聞いたことのないそれらの単語に、少年は内心で首を傾げる。
 男は説明を続ける。
「オレのSn細胞を解かし出して、貴方の身体の復活のために用いる。ただし、この施術が成功したとしたら、貴方はもはや普通の人間ではなくなる。それでも、家に帰りたいと思うのだな?」
 少年は視線に力を込めて肯定の意思を示した。
 男はひとつ頷くと、手袋を外し、親指の付け根あたりをナイフで切った。血がどくどくと流れ出し少年はぎょっとするが、それに構うことなく、男はなにやら呪文のようなものを詠唱しながら、その血を少年の、なんとか形の残っている右手に塗りつける。すると、あれほど痛かった右手から痛みが引いていく。
 不思議な感覚にほんの少しの恐怖感を覚えながら、自分の身体が元通りになっていくのを感じる。
 Sn細胞は自己保存・自己増殖の本能のままに、新しい宿主となった少年の身体を健康な状態に回復させていく。
(こんなすごいことができるなんて、)
 少年はぼうっとした頭で考えた。
(まるで、魔王様みたいだ)

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 少年が次に目を開けたとき、そこは薄暗いテントの中だった。
 白い寝台の上に寝かされた身体を持ち上げる。身体はいつもよりずっと軽かった。
 寝台から飛び降りてテントから顔を出すと、仏頂面の子どもと目が合った。
「わぁっ!」
「……なによ、人の顔を見るなり。失礼ね」
 その子は少年をテントに押し戻し、寝台に座らせる。
「これ、ごはん食べたいなら食べなさい」
 そう言ってその子は、小さなパンとスープが載ったトレーを突き出した。
 少年は空腹に気づいて、それを素直に受け取る。
 じっと少年を見つめるその子に、「君も食べる?」と訊ねてみる。
「いらない。もう食べた」
 その子は短く答えた。じゃあなんでそんなにジロジロ見るのだろうと思いながら、少年は食事を続ける。
 パンとスープをたいらげると、その子はトレーを引き取って、「理仁を呼んで来るから待ってて」と言い残してさっさと出て行く。
 理仁、というのは誰だろう、などと思っていたら、すぐに黒衣の男が現れた。おそらく彼が理仁だろう。
「傷は…… もうないな?」
 男は気遣うように少年を見やる。
 その声に聞き覚えがあった。
「あ、……ぼくを助けてくれた、魔王様?」
「……そんなところだ」
 男はそっと少年の隣に腰掛けると、神妙な面持ちで口を開く。
「これからのことを話そう」
「これから?」
 なにかあるのだろうかと考えるが、なにも思いつかない。
「貴方の治療に時間がかかった。転落事故からもう三日経っている」
「えぇっ! じゃあ早く帰らなきゃ!」
 少年は寝台から飛び降りて出て行こうとする。
「待て」
 それを、男が制止した。
 少年は振り返る。
「あの、助けていただいてありがとうございました、ぼく、もう帰らないと、お母さんが心配してるから!」
「……本当に行くんだな?」
「うん!」
 少年ははにかみながら笑って答える。
「お母さん、一人じゃ大変だろうから。家族はぼくとお母さんしかいないから、ぼくが帰らなきゃ、心配するだろうし」
「……そうか」
「うん!」
 少年はもう一度礼を述べる。
「助けてくれてありがとうございました、魔王様。ぼくもう帰ります」
「わかった。なにかあったらまた呼んでくれ」
 少年は頷いてテントから飛び出していく。
 それに続いて男もテントから外へ出る。
 少年の姿が小さくなっていく。
「あんなに小さな子に、残酷なことするわね」
 男が振り返ると、トレーを片付けて戻ってきた少女がじろりと男を睨んでいた。
「……桜、どうして、」
「あれくらいの男の子が、あんなに手荒れしてるはずがない。ずっと家事をしてきた証拠よ」
 少女は男が少年を連れて来たとき、外套の隙間からだらりと垂れた腕の酷い荒れ方に気づいていた。転落で生じるものではない、あれは日常的に家事を続けた手だと一目でわかった。
「好き好んでやってるみたいだけど、母親の方がどう思っているのかは疑問よね。本当に帰してよかったの?」
「……あの子がそれを望んだから」
「あの子がもっと傷ついたらどうするの? 責任取りなさいよね、理仁が拾った命なんだから」
 それだけ言って、少女はその場を後にする。
 男はもう一度、少年が駆け出していった方向を見た。
 すでに姿は見えなくなっていた。

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 駆ける足が軽い。
 薄暗い空の下、少年はぱたぱたと軽い足音を立てて坂道を下っていく。
 途中、近隣の住民と遭遇したが、皆が皆、化け物を見るような目で少年を見た。それに気づかないまま、坂道を下った先のぼろアパートまで駆け下りた。
 いつもは近所の迷惑になるからとゆっくり昇る鉄の階段を、気にせず一息に昇り切る。
 二階の端の部屋、母親と自分の家。
「ただいま!」
 バタンとドアを開けると、テレビを見ていた母親が何事かと鬱陶しそうに振り向いたあと、少年を視界にとらえて目を見開いた。
「アンタ、なんで……!」
 部屋には酒瓶がいくつも転がっていて、おそらく台所も同じような状況だろうと苦笑する。
「お母さん、遅くなってごめんね。すぐお部屋片付けるから……」
 そう言って部屋に入ろうとしたとき、なにかを投げつけられた。
 それは少年の左目に直撃し、少年は思わず目を押さえてうずくまる。
 なにが起こったのかわからず周囲を見回して、酒瓶がころころと転がっていくのが視界の端に見えた。あれを投げつけられたのだと気づくのに数秒かかる。
「アンタは死んだって、死体は獣に食われたって、厄介者がいなくなって清々してたのに――!」
「……!?」
 少年は呆然とそれを聞く。
(厄介者? 死んだ? 清々した?)
「どうして、お母さんはぼくが帰ってきて、嬉しくないの……?」
「決まってるでしょ! もともと産みたくて産んだわけじゃないし、アンタがいるって聞いたら男は逃げていくし、アンタは何の役にも立たないし! アンタなんて本当、居るだけ迷惑なのよ!」
 そう言って、母親は別の酒瓶を手にとって少年に殴りかかろうとする。
 少年は動くことができなかった。振り下ろされる酒瓶を、ぼうっと見ていたその視界が、

 漆黒に包まれる。

 パリンと、ガラスの割れる音が部屋に響く。
 少年の身体を、黒い羽が包んでいた。
「え、なに……?」
 少年はわけもわからずその羽を見る。その羽は少年の意のままに、ゆらゆらと揺らめいた。背中に違和感を感じて手を伸ばすと、そこから羽のようなものが生えていることが感触でわかった。
 少年の頭に、魔王の言葉が響く。
『この施術が成功したとしたら、貴方はもはや普通の人間ではなくなる』
 これがそうなのだろうか。
 少年がそっと羽を撫でると、ガラス瓶による殴打を防いだとは思えないほど柔らかな羽根にまた驚く。
 感心しているのもつかの間、母親の叫びが少年の耳に突き刺さった。

「ば…… 化け物ッ!」

「……!」
 少年ははっと母親を見る。
 その瞳は恐怖の色を帯びていた。
「い…… 要らないガキが死んだと思ったら化けて出て来るとか、本ッ当に何なのよ……!」
 そう言って今度は、割れた瓶で突き刺そうと瓶を逆手に持ち変える。
(ああ、そうか……)
 少年は、なおも宿主を守ろうとする羽を静止させる。
「ぼくは、いらない子だったんだね……」
 頰に冷たいなにかが流れる。
 母親の瓶が迫るが、少年はもう、自分の身などどうでもよかった。静かに目を閉じる。自分が死んで母親の気がすむのなら、それで構わないだろう。
 振り下ろされる瓶が、いつ頭上に落ちてくるのかと思っていたが、その衝撃はなかなか訪れなかった。
 その代わり、ふわりと柔らかいなにかが少年を包む。
 酒瓶の割れる音のあと、母親が震える声で叫ぶ。
「だ、誰よ、アンタ……⁉」
 少年はそっと瞼を開き、顔を上げる。
「魔王様?」
 少年が呼びかけると、男は伏し目がちに呟いた。
「……すまない」
「え?」
「こんなことになると予想はしていた。貴方をここへ帰すべきではなかった。すまない」
 男は絞り出すようにそう言った。
 その男の美しい顔につうと、赤い雫が流れる。
 少年は男が頭から出血しているのだと気付き、目を見開く。
 それと同時に、母親は突然現れた男に向かって、血に濡れた酒瓶を突きつける。
「誰よ、アンタ! 警察呼ぶわよ!」
「この状況で警察など呼んで、傷害の疑いをかけられるのはどちらだろうな?」
 男が母親を睨みつける。
 母親がなにも言えずにいると、男は少年を軽く抱き上げた。
「この子ども」
「……?」
 母親が訝しげに男を見やる。
 男は突き刺すような視線を向けたまま、静かに言葉を紡ぐ。
「貴女が要らないと言うのであれば、オレが貰い受けよう。ただし勘違いするな。貴女がこの子を捨てたのではない。貴女がこの子に捨てられたのだ」
 そのまま、関心を失ったかのように母親から視線を外し、男は踵を返す。
 少年は、自分の家だった部屋から、男に連れられるまま出て行った。
 かつて母親だった女の手から、血に濡れた酒瓶がぼとりと落ちた。


「魔王様、頭の怪我、大丈夫?」
 少年はおずおずと話しかける。
 男は怒っている。そう感じて、しばらく声をかけられなかったのだ。
 しかし、黙って連れて行かれるのに耐え切れず、思い切って声をかけた。
 男ははっと気がついたように少年に目をやり、「すまない」となにに対してかわからないが謝罪した。
「貴方をあそこに置いて行く訳にはいかないと、貴方の意志も聞かずに連れ出した。もちろん、貴方が帰りたいのなら送り届けるが……」
「いや…… いいよ。ぼくは、いらない子だったみたいだから」
 少年は首を横に振った。改めて口に出して、胸が締め付けられる。
 男は伏し目がちに少年を見つめたあと、おもむろに少年を脇の下から抱き上げる。いわゆる「高い高い」をされた格好になるが、少年は驚いて男の顔を見ようと目を下に向ける。
「上を見なさい」
 言われるまま上を向くと、
「うわぁ……」

 一面の星空。

 今まで、夜に外に出たことがなかったから、そもそも、空を見上げることも少なかったから、気づかなかった。空にはこんなにも星があったのか。
「貴方を必要とする人は、必ずいる」
 男は静かに語る。
「だから、貴方は貴方を必要とする人の手をいつでも掴めるように。あの星々のように、いつでも人々を見守る、そんな人間になれ」
「どうすれば、そんなふうになれるの?」
「もっと高いところの空気を吸うこと……だそうだ」
 少年にはその言葉は難しかったが、不思議と心に染み込んだ。
 少年をそっと地面に下ろし、手を引いて歩く。
 遠くに明かりが見えてきた。これから少年の新しい家になる場所。
 その入り口に、仏頂面の少女が立っていた。
「おかえり」
「ただいま」

 そのあと、理仁の流血沙汰について一座の上層部からお説教がなされたという裏話があるが、それはともかくとして。

 数日後、一座総出で考えた「高辻十兵衛」という名前が、少年に与えられた。
 これが、少年が「普通の人間」から「普通じゃない人間」になったときのおはなし。

   ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

「オレの場合は、そうだな…… 理解したのが極限状況でだったからそんなに衝撃を受けてる場合じゃなくて、でも、お母さんに化け物呼ばわりされたときは傷ついたなあ」
「やっぱり、傷つくものなの?」
「まあね。でも、オレの場合は魔王様やアネキがいてくれたから、あんまり辛くはなかったよ」
 十兵衛は優しい目をして桜を見る。
「アンジュさんにも、そんな人が必要なんじゃないかな。傷つくことは避けられないけど、そこから立ち上がれるかどうかは、本人の力と同じくらい、仲間の力にもかかっているんだと思う」
「……そうね」
 桜が答える。
 その横顔を見上げながら、十兵衛は思う。
(アネキはアネキで、誰かの力が必要なんでしょ?)
 それが自分だったらいい、などと自分勝手なことを思いながら、十兵衛は桜の隣を歩く。
 理仁のテントが見えてきた。この話は一旦おしまいだ。
「今回もよろしくね、アネキ!」
「……あんたこそ、足引っ張るんじゃないわよ」
 軽口をたたき合いながら、長短二つの影は薄暗いテントの中に消えていった。

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