第24話 迎えに行こう

 理仁が太刀を振り下ろそうとした瞬間、世界が変わった。
 白い迷路のような世界で、目の前のアニルが醜く嗤っている。
「《改正法》はまだ扱い慣れていないと見ました」
「……ッ!」
 アニルの手に現れたピストルが理仁の頭部を狙っている。
 理仁は身をひねって被弾を避けた。バックステップで距離を取る。
 アニルはアンジュの消えた方に視線を向けて、「おやおや」と呟いた。
「アンジュさんは彼女の領域に帰っていったようですね。となると、今から向かってもアンジュさんは完全体になってしまった後でしょう。穴を埋めるパスワードは、すでに把握していた様子でしたし」
 そう、理仁はアンジュを帰す、その瞬間だけアニルを自己の領域に引き込めればそれでよかった。そのためだけの《改正》だった。パスワードを入力すれば、アンジュは助かるのだから。
 しかし、問題はまだ片付いていなかった。
 アニルの目の前に窓が現れる。それを確認した瞬間、アニルの白い顔が怒りで赤く染まった。
「DILが正常停止した……だと……ッ!」
 理仁にはアニルの言葉からは最低限のことしかわからなかったが、聖か、あるいはミーナ自身が、DILを停止させたのだと思った。
 アニルは吐き捨てた。
「貴方がたと遊んでいる暇はないようです。失礼します」
 そう言って領域を移転しようとしたアニルを、理仁はとっさに自己の領域へと引き入れる。移転に失敗したアニルが充血した目で理仁を睨みつけた。
「邪魔をするな……ッ!!」
 アニルは再び白い領域に移転した。めまぐるしく変わる背景、しかし理仁は変わらずそこにいた。躊躇することなく理仁に向けて発砲する。理仁は危なげなくそれをかわし、アニルの動きを注視した。
「領域の移転ができるように改正した? 偉そうなことを言うが、扱いきれなければなんの価値もないだろう!」
 ろくに狙いを定めることなく立て続けに発砲したところで、理仁がそれを躱すことは容易であった。しかし、銃弾を装填する必要のないらしいピストルが火を噴くのを見て、思うように近づけないことに唇を噛んだ。
 アニルの指摘した通り、理仁は《ネット人格》を完璧には扱えない。そもそも、《ネット人格》を立法しようと思いついた発端は桜のメール送信の安全確保である。桜がネットカフェを利用することを覚えてしまったので、《改正前・ネット人格》ですら使う機会がほとんどなく、扱い慣れていなかった。それを改正したところで同じこと。C.C.に慣れてきたらしいアニルを相手にどこまで太刀打ちできるか、これはアニルに分があった。
 ただし、今回の改正は『自己の領域を創造すること』と『自己の領域に相手を連れ込むこと』を加えただけで、改正前の『創造主の意思に関わらず他人の領域に存在すること』は残っている。現に、理仁の手には変わらず太刀が握られていた。つまり、アニルの領域であっても、理仁はイレギュラーに刀を扱うことができる。理仁がアニルに勝つためには、単純な戦闘経験の差を見せつければいい。
 アニルも理仁の刀を見て、《改正・ネット人格》の利点に気づいた。そして、彼はすぐに対策を考えつき、実行に移した。
 アニルの姿が掻き消えようとする。領域から移動しようとしていることに気づいた理仁が、自己の領域を展開しようとした時、

 パンッ……!

 理仁の左肩から鮮血が飛び散った。どういうことかと、理仁は周囲を見渡す。
 アニルは目の前にいる。領域は変わっていない、白い迷路の空間だった。
「……たとえば、私が領域を移動しようとしたとします。貴方は妨害するはずだ。DILを再起動させないために。ならば、それを利用すればいいのです」
 ここまで聞いたところで、理仁はアニルの言わんとするところに気づく。
 理仁が採るであろう行動を逆手に取られたのだ。
「そう、別の領域に移動すると見せかけて、元の領域に戻り同時に貴方を引き込めばいいのです。そこには無防備な貴方がいる。それを撃ち殺せばいい。……ああ、貴方は〈緋の心臓〉の所有者(ホルダー)、不死者でしたね。この空間で撃ち殺したら現実の貴方の肉体はどうなるのか、分野は違いますが研究者の一人として多少の興味はあります」
 理仁にも、この傷が現実の肉体でどうなるのかわからなかったが、あまり好ましいことにはならないだろうと直感した。
 それよりも厄介なのは、理仁の側にはアニルが本当に移動しようとしているのか、罠なのかがわからないことである。というより、理仁が妨害しなければどちらにしろアニルは領域を移動するのだろう。ならば理仁は妨害するしかない。……撃たれることを前提に。
(ああ、これは……)
 理仁は、普段使わなかったとはいえ《ネット人格》の扱いに慣れておかなかったことを後悔した。
(練習というのは、やはり大事だな……)
 帰ったら練習しようと、ぼんやり考える。

 ちゃんと帰れるかどうか、理仁にも自信がなかった。でも、『帰らない覚悟で』などと考えたその瞬間、仲間の少女と少年と青年に怒鳴りつけられるのだろうと思ったから、その考えは頭の奥の方の抽斗にそっと仕舞って、帰ることを前提とすることにした。

   ********

 聖から十兵衛とミーナに撤退の指示が出た。
 火の回りはまだ遅いらしく、まだB102号室がある南側には到達していない。しかし、不死者の理仁や身体を変異させられる十兵衛はともかく、通常人のミーナが安全に避難するのは早いに越したことはなかった。
 ミーナがアンジュの宿っていた人形を見つめているのに気づいて、十兵衛は訊ねた。
「アンジュさんも、一緒に連れて行きましょうか?」
 ミーナは首を横に振った。「アンジュはここにはいないから」
『通路はわかるな? まあ来た道と同じだ。シャッターが下りてたら十兵衛、お前がぶっ飛ばせ。ミーナと理仁を無事に連れ帰ることだけ考えろ、いいな?』
「わかりました」十兵衛は頷いたが、暗に『桜のことは気にするな』と言われたような気がした。
 ミーナが先にドアを開ける。警報が先ほどと同じようにけたたましく鳴り響いていて、けれど今度は本当に火災が起きているのだと緊張が走った。
「煙はまだ来てないけど、できるだけ身をかがめて。魔王さんは低く抱えて移動。できる?」
「できます」
「行くわよ」
 ミーナが先導して部屋を出る。部屋の監視カメラに十兵衛たちの姿は映らなくなり、聖からは十兵衛たちの様子はわからなくなった。そのことだけで、十兵衛は不安を覚えた。情けないと自分で自分を叱咤する。
 一人でも立ち向かえる人になりたいと思う。そうでないと、彼女と対等の場所には立てない。
「サクラが心配?」
 先を行くミーナが不意に訊ねた。十兵衛は目を丸くした。ミーナは桜のことを嫌っていると思っていたから。
「そりゃ…… 心配です。火の方向に向かったんですから」
 答えたあと、逆に訊ねた。「アネキのこと、嫌いじゃないんですか?」
「嫌いだったわ」即答されて面食らった。ミーナは続ける。
「アンジュは別として、明るい子って基本的に嫌いなの。明るく笑ってる子はいつもちやほや優遇されて、本ばっかり読んでる地味で暗い子はいつだって『暗い』とか『ネガティブ』とか『愛想がない』とかろくな評価受けなくて。たまに気まぐれみたいに近づいてくる明るい子たちはいつだって『笑いなよ!』ってへらへら偉そうに説教垂れて。こっちは散々嫌な経験し続けてこの仏頂面がデフォルトなのよ。『悩みなんか経験したことありません』とばかりにいつも笑ってる子たちを見たって恨めしいばっかりでとても好きになんてなれないわ」
「……でも、」
「でも、そういうのは訂正しなきゃね」
 十兵衛が口を挟みかけたのを、ミーナは遮った。
「ずっと苦しんで、それでも笑ってる子だっているのね。散々悩んで、それでも笑うことを選択する子もいるのね。そういう強い子って、あたしみたいな弱い人間からすればやっぱり恨めしいことには違いないんだけど、でも、凄いと思う」
 そう言って、ミーナは不安そうに十兵衛を振り返った。
「……サクラには、最初から嫌いだって伝わっちゃってたのね。それでもあたしなんかを助けようとしてくれたのね。あんたたちはこの事件が片付いたらいなくなっちゃうんだろうけど、その前にサクラには謝りたいの。勝手なレッテル貼って、ひどいこと言って傷つけてごめんって。サクラ、許してくれるかしら? もうあたしの顔なんて見たくもない?」
 十兵衛は微笑んだ。彼女を相手にそんなことを考えるのは杞憂だ。
「そんなわけないですよ。きっと『不用意なこと言った』って反省して凹んでると思うんで、声かけてあげてください」
「なんでサクラの方が反省してるのよ? 失言はあたしの方でしょ?」
「んー、なんていうのかな、いつも自分の非を疑ってる人ですから…… その割にすぐ勢いでもの言っちゃうんですけど…… 悪気はなかったと思うしきっと反省もしてるんで、ひょっとすると向こうから謝ってくるんじゃないかな」
「……ふうん」
 ミーナはしばらく考え込むように沈黙したあと、きっと独り言だったのだろうが、呟いたのが十兵衛の耳にも届いた。
「……あの子、どれほど傷ついてきたのかしら……」
 ミーナが言ったのはどういう意味だろう、と十兵衛は考えた。確かに桜は《害悪の告知》などという妙な異能を持っていたせいで、他人の悪意に傷ついて生きてきたはずだが、ミーナが言っているのはそのこととは違う気がした。
 かといって、独り言について追求するのも憚られて、十兵衛はなにも言わずにミーナの後ろを歩き続けた。

   ********

 十兵衛とミーナがB102号室を出たあと、聖は桜を誘導しつつ、アニルに遮断されている彼の『領域』へのアクセス権を復帰させようとキーボードを叩き続けていた。
「……っ、クッソ硬ぇ……」
 しかし、何度試しても結果は芳しくない。桜が危険を承知でアニルのいる部屋へ向かっているのに、自分はなにもできない。けれど、桜にばかり負担をかけるわけにはいかない。これはもう「意地」のようなものであった。
 数十回目の失敗の後、もう一度、と指を動かそうとしたとき、不意に画面が切り替わり、黒髪のおさげの少女が現れた。
「……は……?」思わず間の抜けた声を漏らす。
 少女はくるりと周囲を見渡して、『あ、成功した!』と嬉しそうに飛び跳ねた。
 理解の追いつかない聖が思わず訊ねる。「もしもし、お嬢さん?」
『え? わたしのこと?』少女が振り返った。
「あんた以外いないだろ。えっと、もしかしてアンジュか?」
『そうだよ、ヒジリくん!』
 少女――アンジュは人懐っこい笑みを浮かべた。『アニルが邪魔しに来て、魔王さまに時間を稼いでもらって、パスワード入力して、そしたらわたし、ちょっと身体が重くなったんだけど、それなのに動きがすごく軽くなったの! で、近くにヒジリくんの名前の「りょういき」があったから、移動してみたの!』
「えっと、要するにあんたは消滅を免れて、理仁は約束を果たせたってことか」
 聖に新たな疑問が生まれる。ならばどうして理仁は戻ってこないのか。十兵衛から理仁の意識が戻ったという連絡はない。
「理仁はどうした?」
『えっと、ちょっと待ってたんだけど帰ってこなくて。だから探しに行こうとしてたんだけど、場所がわからなくて…… それで、ヒジリくんならなにか知ってるかなって、ここに来たんだけど……』
 『やっぱり戻ってないの?』と不安げに訊ねるアンジュに、聖は表情を険しくして頷く。しかし、すぐに桜や十兵衛に向ける余裕ぶった表情を取り戻して、アンジュに笑いかける。
「ま、あんたが無事でよかった。しばらくここにいるといいぜ、理仁ももうすぐ帰ってくるだろうから……」
『おかしいの。アニルも追ってこないし……』アンジュが続ける。『もしかして、アニルに負けちゃったとか……』
「おいおい、あいつはあれでも〈魔王陛下〉だぜ? 小悪党に負けるかよ」
『だって、ヒジリくんも魔王さまの居場所、知らないんでしょ?』
 聖は返答に詰まる。確かに、理仁が負けるだなんて思ってもいないが、かと言って無事だという保証もできなかった。
 黙り込んだ聖に、アンジュは『そうだ!』と手のひらを叩く。
『ヒジリくん、アニルの「りょういき」の場所、わかる?』
「今、アクセスしようと試してて…… 失敗してるところだ」
『じゃあ、わたしが手伝う!』
 アンジュは聖の予想していなかったことを提案した。聖の眉尻がピクリと跳ね上がる。「手伝うって…… あんた、なにか手があるのか?」
『もう! ヒジリくん、わたしがなんなのか覚えてないの? ウィルスのANJUだよ! DILの元になった、しかも、前みたいに不完全じゃない、なんでも自由にできちゃう完全体だよ! これを使わない手はないよ!』
 アンジュは胸を張ってそう言った。
 聖にも、その提案は一瞬だけ光明に見えた。しかし、すぐに思い直して首を振る。
「……ダメだ。理仁が助けようとしていたあんたを、俺が危険に晒すわけにはいかな」
『なるほど、ヒジリくんが進もうとしていたのはこっちか。確かにアニルに妨害されてるね。でも、逆にこれを辿っていけばアニルの「りょういき」に行けるわけだ。よし、ここはアンジュちゃんに任せて!』
「話聞けよオイ! あんたはおとなしくここで待ってろ、理仁が負けるわけねーんだから……」
『心配なんでしょ? 魔王さまのこと』
 幼稚園の先生みたいに柔らかく問いかけられて、聖は言葉に詰まった。
 アンジュは微笑んで続ける。
『魔王さまは、ミーナとわたしを助けてくれた。ただの通りすがりだったのに、わたしの大好きな友達を助けてくれたの。魔王さまはわたしにとって、もう、ただの通りすがりじゃない。魔王さまだけじゃないよ、サクラちゃんは友達だし、ヒジリくんやジュウベエくんも含めて、ミーナを助けてくれた大事な人たちなんだ。だから、みんなが困ってるなら、今度はわたしが助けたいって、思う。心の底から、そう思うの』

 だから、一緒に迎えに行こう?

 ――ふうと、聖は深い、深い溜め息をついた。
(……なあ、理仁)
 奴がなにかの縁で助けた子どもたちは、特に桜と十兵衛がそうだ、奴のためであれば危険を顧みない。みんな理仁のことが大切で、奴をいつも追いかけて、助けようとする。それなのに、当の本人ときたら。
(進んで危なっかしいことにばっかり首を突っ込みやがって、追っかけてくるガキどものこと、少しは考えろ馬鹿……)

「わかった、俺から頼む。あんたが先導してくれ。そんで、アニルの部屋にたどり着いたら、あんたは安全なところに隠れる。俺が奴の領域の支配権を分捕って、王手(チェック)だ。OK?」
『任せて!』
 ウィルスの少女がアニルの仕掛けた網をゆっくりと、しかし着実に解いていく。
 聖は、彼女が作ってくれた最後の戦場への道を見据え、鍵盤に向かうピアニストのように、ピンと張り詰めた空気の中、キーボードに指を置いた。

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