第25話 こちら側

 聖のいるミーナの研究室の前に無事到着した十兵衛とミーナは、どうしてドアが叩き壊れているのかと顔を見合わせたあと、そっと部屋を覗き込んだ。持ち込んだ端末に囲まれて、床に座り込んでいる派手な銀髪の男。十兵衛は「聖さん!」と駆け寄り、ミーナは、「へえ、あんたがマツバラか……」と遅れて部屋に入る。
 聖は一瞬だけ彼らに目を向けたあと、「十兵衛、ミーナ、ご苦労さん」といたわりの言葉だけかけた。その様子から、まだ事件は解決していないのだと十兵衛は察する。
「アニルはどうなったんですか?」
「今、アンジュに手伝ってもらってアニルのもとに向かってる」
「アンジュが?」ミーナが十兵衛を押しのけて聖の隣に駆け寄る。
 画面に浮かんでいるのは、人形に宿っていたときと同じ、黒髪のおさげの女の子。「無事だったんだ」と、思わず涙っぽい声が漏れる。
「……水を差すようですまんが時間がない、感動の再会はアニルの件が解決してからにしてくれ」
「わかってるわ、邪魔はしない」ミーナは目元を拭いながら答えた。「だけど、ここで見てるくらいならいいでしょ?」
 「もう会えないんだから」と続けたのを聞いて、聖は、わかっているなら早めに言っておくかと口を開く。
「ああ。……アンジュはノアの箱舟で預かる。結局あんたが止めたから作動はしなかったが、行政側はDILの侵入に気づいて、今、てんやわんやだ。あんたがアンジュを保有し続けて、万が一ウィルスの作成者だとばれたらロクなことにならねぇ」
 ミーナは素直に頷く。「犯罪に手を染めたのは事実だし、捕まるのも一向に構わないけど、……そもそもわたしにはもう、アンジュと一緒にいる資格はないもの。散々利用して、捨てたんだから」ミーナが瞼を伏せて、目元に影ができる。
「他に残ってるANJUとDILに関するデータは消去する。それでいい?」
 心の中では寂しさや悲しみが渦巻いているのに、淡々と、努めて淡々と言葉を紡ぐミーナに、聖はこれ以上彼女を追い詰めるのは無益だと思った。
「物分かりが早くて助かる」
 それだけ答えて、画面に視線を戻す。
 続いて、十兵衛がためらいがちに口を開いた。
「あの、聖さん、……アネキは?」
 聖の肩がピクリと跳ね上がった。彼は不機嫌そうに答えた。
「アニルの救出に向かってる」
「……はぁ!?」十兵衛は聖に食ってかかる。やはり桜の安否を問い詰めるべきだったと、自分の過失を棚に上げている自覚はあったが、それでも非難せずにはいられなかった。「なんでですか、アニルなんか放っておいても……!」
「桜が助けると言ったんだ。桜はそういうやつだからだろ」
「納得できません……!」
「ったりめぇだ、俺だって納得してねぇよ」年少者の前ではいつも飄々としている聖が、すごく、ものすごく不機嫌そうに顔を歪めて十兵衛を見た。「俺だってお前らが無事ならここで誰が死のうが知ったこっちゃねぇ、どうせアニルのやったことは俺が盛大に公表してやるつもりだし、そうすりゃこの国の刑法によれば終身刑か死刑だろ。俺的には終身刑は仮釈放の夢も希望もない、死刑より非人道的な刑罰だと考えてるから、ここで殺してやった方が結局優しいんじゃないかとさえ思う」
 冷たい思考だと聖自身も思う。ミーナも聖を睨んでいた。
「……でも、そうやって見捨てられる怖さを、桜は知ってるだろ。あいつが理仁に誘拐されたとき、親も、誰も騒がなかった、なにもなかったかのように世界は動いてた。誰にも追いかけてもらえない寂しさを、あいつは身を以て経験しただろ。……お前も知ってるんじゃないか?」
 確かに、十兵衛も知っている。理仁に抱きかかえられて部屋を出たあのとき、本当は、ほんの少しだけだけれど期待した。母親が、自分を追いかけてはくれないものかと。……あの女性《ひと》は追いかけてはくれなかったけれど。
「俺が撤退しろと言って、それでもアニルを助けるとあいつは言った。あいつの言葉の重みに対して、俺のつまらない形式論なんかが反論になるわけがねぇ。やっぱり理解はできないし、おかしいと思うが、俺にはなにをどう言えばあいつを止められるのかわからなかった」
「……オレにも、反論はできないですけど、でも、それじゃアネキはどうなるんですか! アネキのことは追いかけなくていいんですか!」
「必ず助ける」聖は言い切った。「なにがなんでも安全なルートを見つけ出して誘導する。そんで戻ってきたらお説教だ」
 十兵衛はようやく気づいた。聖は怒っているのだ。
 聖は不機嫌そうに、火災報知システムにアクセスしている別の画面を睨む。
「あいつは自分自身が追いかけられる側にいることを全く理解してねぇ。本当にムカつくよ、いつまでたっても自分が『鬼子』だと思い込んでやがる。今度という今度は説教だ、じゃねぇとあいつは何度でも同じバカを繰り返す」
 十兵衛も、頭に血が上っていたのが収まり、だんだんと冷静さを取り戻していった。そして、桜を止めなかった聖より、自分を省みない桜の方が残酷だと思った。
「すみませんでした、聖さん」
 感情的になって責めたことを謝罪する。聖は険しくなっていた表情を少しだけ緩めて、十兵衛に問うた。
「で、お前はどうする?」
「今のお話を聞いたのにアネキのところに行ったら、オレまでお説教でしょう。アネキは助けると聖さんが言ってくれたんです。だから聖さんを信じてここで待ちます。でも、状況が急変して本当に危なくなったらオレに言ってください、オレがアネキを助けに行きます。それで、オレからもアネキにお説教です」
 十兵衛はいつも通りの、物分かりのよい、穏やかな少年に戻っていた。緊急事態でこそ、周りの年長者たち――というか理仁と桜――がなにも考えず動いてしまう分、十兵衛が冷静でなければならないことを彼は経験から知っていた。
 聖も幾分落ち着いたように、まだまだ不機嫌さは隠せていなかったが、ぼそりと呟いた。
「……すまん」
 そう言って、聖は画面に視線を戻す。今、一番神経を擦り減らしているのは聖だと知っていたから、十兵衛は邪魔をしないように、静かに彼を見守った。
 すると、スピーカーから少女――アンジュの声が響く。
『着くよ、ヒジリくん!』
 部屋に緊張が走った。三人は小さな画面を覗き込む。
 たどり着いたそこは見渡す限り真っ白な、招き入れられた人を不快にする、終わりのない迷路のような場所であった。

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 常であれば銃創など数分で完治するのだが、やはりサイバー上の身体では結晶の機能は働かないらしいと、何度目になるのかわからない銃撃を受けながら、理仁は身体の状況を把握するためというよりはむしろ痛みから気をそらすために考える。《ネット人格》が結晶の機能までは再現していないのか、あるいは、結晶が守るのはあくまで肉体であって精神については保護の範囲外であるかのどちらかが原因であろう。
 理仁の結晶〈緋の心臓〉がどのような状況下で働くのかは、実のところ結晶を抱えることになって数十年になる本人にも未だによくわからない。それを人に話すと、聖には『おまっ、世界の至宝を抱えながら興味なしかよ!』と呆れられ、十兵衛には『魔王様はもうちょっとご自分に興味とか関心とか持つべきだと思います』と苦笑され、桜には『まあいくら結晶と言ってもバカを治す効用がないことだけはわかったわ……』と冷めた目で言われた。……桜の言はちょっとだけ胸に刺さった。
 どうでもいいことを考えるのも痛みを頭から追い払うためであったが、目の前にはやはり歪んだ笑みを浮かべるアニルがピストルを向けて立っている。その目には余裕がなく、赤く充血した目をひん剥いて、理仁が膝を折るのを待っているのだ。
「不死の結晶型能力者だから……というのではなさそうだな、お前のその虫のようなしつこさは」
 何度追い払おうとしても付きまとう、虫のようだと。
 理仁は血の混じった唾を吐き捨てて答える。
「約束を、ミーナとアンジュを守ると、心に決めたからだ」
 アニルは鼻で笑った。「約束、か。お前を縛るのはそれだけか」
「……それだけで十分だ」十分。言い聞かせるように心の中で唱えた。
 旧い友人が示してくれた、幼かった少女が頷いてくれた、己の生き方。
 誰かを守ること。気がついたときにはなにも持っていなかった理仁が、縋るように心に決めてきたルール。
 魔王陛下が魔法の《Gesetzgeber(立法者)》なら、そのルールは魔王を縛る《Verfassung(憲法)》とでも言えようか。
 しかし、反対に、それ以外に魔王を縛るものがあるのか問われると、彼は悩む。それ以外には、彼はなにも持っていなかったのだから。
「私にはね、なにもないんだよ」
 不意に、アニルは言った。理仁は彼を見る。
「なにを掴もうとしても、するりと手から逃れてしまう。昔からそうだった。そのうち、どうせ掴むことなどできないのだと、手を伸ばすことすら諦めた。それなのに」
 アニルは忌々しげに、歯をむき出しにして、叫ぶように語った。
「アルシャドはな、私と大学のゼミで知り合った。あの頃のヤツは人付き合いが下手で、愛想がなくて、知り合いも少なくて、いつも一人でいる、陰気な男だったよ。対する私は愛想のいい、知り合いも多い、ゼミの中心だったさ…… 表面的にはな。人に囲まれていても私は孤独だった。なにもかもがつまらなかった。生きている心地がしなかった。だからアルシャドを見たとき、こいつは私と同じなのではないか、私と孤独を共有してくれるのではないかと、期待したんだ」

 孤独。
 なにもかもがつまらない。
 生きている心地がしない。

 理仁は身の毛が弥立つ気持ちがした。
 すべて、自分も昔、感じていたことだったから。
 アニルは唾を飛ばしながら続ける。
「ヤツと研究所を立てようと持ちかけたのは私だ。ヤツが数少ない友人である私の提案を拒否するはずがなかった。喜んで協力すると、珍しいことに微笑んだんだ。私はようやくなにかを掴めた気がした。
 しかし、私はすぐに後悔した。ヤツはいつだって私の前を行った。技術力のことだけではない。いつだって私が代表を務めたのに、いつだって私がすべての職務をこなして、ヤツは研究室にこもっていただけなのに、仲間から慕われるのはヤツだった。私は見合いで結婚したが、妻はほとんど家にいなかった、当然子どもだっていないさ。ヤツは結婚して、妻を持ち、子をなした。私は裏社会に居場所を求めた、ヤツはそれを知ると偉そうに私を非難した。
 私はようやく思い知った。こいつは私とは違う。こいつは私と並んでいるふりをして、同じ道を歩いていると見せかけて、どこかで別の道を選択し、一人で歩いていた私を見下していたのだ。微笑んだように見えたのは嘲笑だったのだ。私は許せなかった。だからヤツからすべてを奪ってやろうと心に決めた。無理矢理にでもヤツを私と同じところまで堕としてやらねば気が済まないと思った」
 理仁にもわかっている、自分はそんなことはしない、友人を陥れることなんてしない、アニルは勝手に思い込んで勝手に失望して勝手に人の道を踏み外した上に友人を裏切った、どうしようもなく自分本位で下劣な人間だった。自分はアニルとは違う、けれど。

 もしかしたら、自分もそうなっていたかもしれない。

 いや、気づいていないだけで、ひょっとすると自分も同じところにいるのかもしれない。

 碧い瞳の忌々しい同類が脳裏に浮かぶ。互いに目が合った瞬間理由なく斬りつけ合う。桜の言によればネコとネズミが織りなすコメディのように。
 相手も同じところにいると。なにもかもが気に入らなくて、つまらなくて、孤独な世界に、こいつも確かにいるのだと確かめたくて。自分がはみ出し者だと自覚しているから、他にも同類がいるのだと安心したくて。互いに互いが大嫌いだけれど、こいつは自分を置いて別の世界に行ったりしないと、どこかで依存し合って、ネコとネズミが戯れるみたいに殺し合って。
 考えただけで吐き気がして、そんなのは妄想に過ぎないとわかっているのに、思考が止まらない。

 もし、あいつが斬りつけてこなくなったら。別の世界に行ってしまったら。
 残された自分は、どうなってしまうのだろう。
 アニルのように、あいつを『こちら側』に引きずり込もうとするのだろうか。

 頭の中を駆け巡る妄想が視界を狭めた。
 アニルが領域を移動しようとしていて、理仁は慌てて自分の領域に呼び戻そうとして、やはり先ほどと同じようにアニルは発砲し、理仁の右手に銃弾がめり込んだ。
「痛……っ!」
 太刀が手から離れて、ごとんと重い音を立てて床に打ち捨てられる。真っ赤な血が白い廊下を汚していく。
 右手を左手で押さえてしゃがみこんだ理仁に、アニルが最後の一撃を加えようとしたとき、

 少女の明朗な声が響いた。

「ヒジリくん! パス!」
『任せろアンジュ!』

 領域が何者かに支配され、引き金を引こうとしたピストルが砂のように崩れて消えた。
 領域の支配権を失い呆然と立ち尽くしたアニルの目の前にいたのは、傷ついた戦士にまるで天使のように寄り添う、アニルの計画をひっくり返した作り物の少女、アンジュだった。

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