第9話 隙間時間

 中央線に揺られること早三〇分、つまりはほたるの「隙間時間で暗記タイム」はスタートから三〇分が経過していた。単語帳の二五〇番から三〇〇番までが今回の目標だったが、亨は例文にちょくちょく登場するジェシカとヘンリーとアンの三角関係の方が気になっていた。というかマモルが気になると言い出したので一番の例文から見直してみたらジェシカはワガママすぎるしヘンリーは自由人すぎるしアンは献身的すぎるしで、一旦距離を置いた方がお互いのためじゃないかとこの三人を心配しながら見守る友人トムに大変共感した。なにが言いたいかというと英単語五〇個の暗記はそろそろ飽きてきていた。これらの例文からなるちょっとスパイシーな恋物語を真面目っぽい単語帳に隠しておいてくれた編集者も、きっと亨と同じ年のころは英単語を覚えるのに苦労していたんじゃないかと、顔も知らない他人の過去に思いを馳せる。
「……佐倉さん、もう覚え切れましたか?」
「えっとね、いま、三十八個目。小野さんは覚えた?」
「覚えたつもりだったんですが、一つだけ思い出せません。見直しているところです」
「ふたりとも…… 遊びに行くときくらいお勉強のことは忘れようよ……」
 亨の隣に座った美鈴がかなり控えめなに妥当なツッコミを入れる。美鈴の向こう側にいる村上と山本も苦笑いだ。
「鏑木の言う通りだろ、佐倉まで真面目な顔して」
「あら、隙間時間は暗記にちょうどいいんですよ。時間は有効に使いましょう」
 ほたるは、恐らく最後に口を聞いたのは数ヶ月以上前であろう山本に、随分気さくに応答した。もちろん、美鈴やエデンに対するよりはいくらか丁寧だったが。
 他方、毎回の期末試験で中の下あたりにいる山本たちが学年主席の真面目な返答にどう切り返すべきか戸惑っているのは、亨の目にも明らかだった。亨が助け舟を出そうか迷っているところに、相変わらず控えめだが美鈴が口を開く。
「でも、ほたる、私たちは単語帳持ってきてないからお勉強できないよ。せっかく六人でいるんだから、佐倉さんとだけじゃなくてみんなでお喋りしよう? エデンなんてつまらなくて寝ちゃったじゃない」
 そう言って、ほたるの隣、右端でイヤホンを耳に差したまま眠り込んでいるエデンを示す。静かだと思ったら眠っていたのかと納得したところで、亨は違和感に気づいたが、同じく違和感を抱いているであろうほたるが指摘しないので黙っておいた。
 代わりに話題を提供することにする。
「あのさ、みんな気づいてる? この例文でジェシカとヘンリーとアンが修羅場迎えてること」
「修羅場……?」
 小首を傾げる美鈴の向こう側で、村上・山本両名は真面目な顔をして頷いた。
「知ってる。『ジェシカが会うたびに違う男友達連れてる』ってトムが戸惑ってたあれな」
「俺が覚えてるのだと、『アンはヘンリーのために水を買いに行ったが、自販機が故障中だったので隣の駅まで歩いた』ってやつだな。尽くすねぇ……」
 男子二人は気づいていたらしい、単語帳の四十九番目と一〇二番目の例文を引き出した。確かにあの話は印象的だ。亨は美鈴に自分の単語帳を渡して該当箇所を指差す。「三番目の例文でジェシカとヘンリーが付き合い始めたことをトムが知るんだけど、八番目によるとトムは昔ジェシカにフラれてたらしい」
「しかもかなり辛辣に」
「全体的にトムが不憫すぎる」
 山本と村上も単語帳を覗き込んだ。美鈴は呆気にとられたように例文の日本語訳を読んでいる。
「気づかなかった……」
「結構有名なネタだけどな。次のページでヘンリーがアンをからかう話が出てくる」
「……ヘンリー、最低……」
「な! 鏑木もそう思うだろ? けど実はヘンリーにもいろいろあってさ……」
 単語帳は山本の手に移って、完全に学習用書籍の役目を降板した。三人が盛り上がっている間に、亨はほたるに囁く。
「マクレガーさんって……」
「……外に出ると耳から入ってくる情報量が多すぎて疲れるそうです。いつも寝た振りを決め込んで堪えているので、そっとしておいてあげてください」
 ほたるも小声で答えた。エデンにも聞こえているだろうが、顔を上げる様子はない。亨もエデンの異能は学習したからわかる。エデンの能力・聴力強化にはオンとオフのスイッチしかない。音の強弱は制御できないのである。そして、警戒心の強い彼女は、常にスイッチを入れっぱなしにしていた。祝日の電車なんて地獄かもしれない。配慮が足りなかったかと、亨はエデンから目を逸らした。
 そんな些細な変化に気づいたのか、ほたるは「佐倉さんは気にしなくていいと思いますよ」と、どこか困ったように微笑む。
「普段からそうですから。あんまり気にされると逆に機嫌を損ねるので、学校と同じように接してあげてください」
「そっか、うん。わかった。……ところで小野さん、忘れちゃった単語一個、思い出した?」
 ほたるはぱたんと単語帳を閉じた。
「せっかくのお出掛けです、時間は有効に使いましょう。交友を深めるのも大切です」
 さすが、才媛は話がおわかりだ。吹き出した亨につられて、ほたるも笑った。

  

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 感知系の異能者の中には、能力のオン・オフと強弱の調整ができる者、オン・オフしか制御できない者、常にオンになっている者の三タイプがある。たとえばエデンの上官の須藤は常時オンになっているタイプらしい。そしてエデンは二番目のタイプで、オンとオフのスイッチしか持っていなかった。
 無駄に感度の良い耳はうるさいばかりで、普通の生活を送る上ではむしろ邪魔だった。まず、教室で先生の言っていることが聞き取れない。チョークが黒板で擦れる音、クラスメートがペンケースをひっくり返す音、後ろの方で教科書に隠れて先生の悪口を囁き合う声。
 アメリカのエレメンタリー一回生のとき、脳が情報を処理しきれなくなって思わず叫んでしまったことがある。
『静かにしてよ!』
 でも、あのときはむしろ静かな方だったらしい。アメリカのスクールの方針で、エデンの異能は入学時点で全クラスメートにも説明されていた。ただ、エデンを含め教室にいた全員、エデンの能力を理解するには時間が足りていなかった、なにより幼かった。教師ですら、エデンの異能の精度をかなり低く見積もっていたのだ。だから、
『エデンの方がうるさい!』
 と、誰かが言い始めたのも仕方のないことだったし、同調した児童たちが弾かれたように『そうだ!』『静かにしろ!』と声の大雨を降らせたのも仕方のないことだったし、教師に大雨を止める技量も責任感もなかったのだって、きっと仕方のないことだった。大雨に打たれたエデンは耳を押さえ込んで、ただ耐えるしかなかった。
 教師の声が聞こえないのだから、勉強になんてまず集中できない。最初のテストの成績は最下位。授業中に理由もなく喚いていた張本人が、最下位。
 教室の後ろで、誰かが笑っているのが聞こえた。「誰か」の数は次第に多くなって、クラスを超えて学年全体がエデンを嘲笑った。負けん気だけでは心が折れそうだった。
 母に『転校したい』と打ち明けたことがある。そうしてようやく、クラスでのエデンの状況を知った母は、涙ながらにエデンを抱きしめて、指で優しく髪を梳いてくれた。でも。
『神様は、乗り越えられない試練はお与えにならない。あなたならこの悲しい時代も乗り越えられるわ』
 エデンは頷いてしまった。本当に、幼かったのだ。母が保証してくれたのなら大丈夫だと、信じてしまったのだ。
 勉強面の不利は教科書にかじりついて自力で補った。次のテストでは学年トップになった。そうすると、エデンを馬鹿にしていた女の子たちは、その時期にありがちな、ませた想像を働かせた。
『耳がいいから、テストに出るところを職員室で聞いてたんだわ』
 これにはもちろん教員が対応した。テストの内容は生徒の誰も知らない隔離された部屋で決めているからエデンにも聞こえるはずがない、根拠のない推測は品位を損なうからやめなさい、と。
 教員の目の届く範囲ではエデンを貶める発言はなくなった。それでも、わざわざ人気のない場所を探して、休み時間にクラスメートたちはその噂を話題にした。『ねぇ、知ってる? エデンがカンニングしてること』。悔しくて担任に訴えても、彼女たちはどこで学習したのか教員の視線をかいくぐって、エデンを笑い続けた。
 堪えるしかなかった。いつかはこの地獄も終わると信じて。
 学校では耳を塞いで過ごして、自宅では両親に笑って見せた。
 いつか、誰かがエデンの頑張りを認めてくれると、エデンの潔白を信じてくれると、祈り続けて二回生に上がった。
 面子が変わらないのだから状況だって大して変わるわけがない。それどころか、シラバスに異能実技が組み込まれますます厳しくなった学校生活で、不満の吐け口はエデンに押し付けられた。
 聞こえていることがわかっていて、あえて教室を移動せずに噂話をするクラスメート。教室から出て行けば『逃げた』と笑われることがわかっていたから、本を読む振りをして無視した。その態度が癪にさわったらしい、クラスメートの行動はエスカレートした。教員からの連絡をエデンにだけ回さなかったり、他の学年にも見られる階段の踊り場にビラを貼ったり、デスクに見覚えのない筆跡のカンニングペーパーを仕込んだり。エデンは最初から聞いて知っていたから、教員が連絡しようとしていた体育実技の補講日の体操服を用意していったし、他の児童が来るよりずっと早く登校してビラとカンニングペーパーを震える手で処分した。だから、教員たちにもこの由々しき事態を把握できなかったのだ。
 処分したはずのビラが清掃員によって発見され、ようやくいじめの事実が発覚したのは、二回生も終わる頃だった。
 そこからはエデンの関知しないところで、大人たちが争うことになる。エデンの親は訴訟も辞さない構えだったし、クラスメートの保護者たちの中には全面戦争だと応じるものもあったらしい。そして、事件現場がSLWという国際組織の下部組織であったことが事態を複雑化させた。校内でエデンとクラスメートを隔離しようにも、エデンだけが一人で授業を受けることになるのはコミュニティから排除されたも同然だとエデンの両親が猛反発。ならばクラスメートのうちいじめの主犯格をクラス移動させようとすれば、コミュニティの中で更生していく機会の剥奪だと待ったがかかる。そもそも学年全体がエデンをいじめの対象としてしか認識していなかったのだからクラスを分けるだけでは意味がない。とりあえずエデンだけでも避難させたかったが、当時開校していたSLW関連校は、アメリカ国内にはエデンたちが通っていたその一校しかなかった。
 結論として、父が特使として日本支部に出向するのに合わせ、エデンも日本に渡ることになった。タイミングよく父に役が回ってきたのか、事態を把握したアメリカ支部が問題解消のため動いたのか、父が自ら願い出たのか、エデンには今もわからない。ともかく、エデンは新しい国で学校生活をやり直すことになったのだが、その時にはすでに、エデンの中に集団に対する恐怖心と警戒心が完成してしまっていた。
 新しいクラスメートとの顔合わせの日、担任がある女の子を呼び出してエデンと対面させた。
『この子が小野ほたるさん。マクレガーさんの助けになってくれるから、困ったことがあったら彼女に聞いてね』
 他の日本人のクラスメートたちとかなり違う、白いさらさらの髪とすみれ色の瞳が印象的な、表情の薄い女の子。本当に、エデンが困っているとどこからか現れて手助けしてくれた。日本語に不慣れなエデンのために、わざわざ図書館から英和辞典を借りてきて、おとなしい美鈴という女の子も交え、一緒に勉強した。エデンが聴覚強化系の異能者だと知れ渡ると、『テストの中身って聞こえる?』なんて地雷を踏みぬくクラスメートも出てきたが、一度ほたるが追い払うと二度と同じ馬鹿は現れなかった。髪と瞳の色が変だと言いはやす子がいれば、ほたるはそれを『変なことではない』と言い切った。
 エデンにとって、ほたるは恩人で、初めてできた味方で、憧れになった。
 ただ、当のエデンは、相変わらずクラスに馴染めなかった。植え付けられた恐怖心と警戒心から、馴染んでいこうという動機が持てなかった。グループワークは石像になったつもりで乗り切った。そんなエデンは、学年で初めての、たった一人の転入生で、みんなと違う容姿をしていて、取っつきにくくてクラス活動に参加しないのに成績だけはいい、生意気な子に見えたのだろう。
 ほたるのいないところで、いつからか悪口が囁かれ始めた。もちろんエデンには聞こえていたけれど、無視し続けた。問題が大きくなったら、今度こそ父の手にも負えなくなる。なにより、また転校だなんてことになったら、ほたると離れなければならなくなる。それだけは避けなければならなかった。
 ほたるの存在だけで安心できた。ほたるがついていると思ったら、悪口なんて負け犬の遠吠えだと自分を納得させることができた。自分は正しいと信じることができた。ほたるの隣にいる自分は、ほたるに釣り合うくらい、正しく綺麗な強い女の子でいなければならないという使命感にも似た信念があった。
 父が特使の役目を終えて本国に戻ることになったとき、無理を言って一人、日本に残ったのも、ほたるがいたからだ。
 高校生になって、自分からアメリカに戻ってみようという気になったのも、ほたるがいてくれればなんとかなるのではないかと期待したからだ。

 それなのに、今。
 自分と反対側のほたるの隣に、そこにいるのが当たり前みたいな顔をして、知らない男の子が座っている。
 ほたるに釣り合う存在なのか、留学中からほたるのメールを通して亨をイメージしていた。ほたるが補講をしてあげているのに成績はずっと底辺。昼休みはほたるを放って、別の子たちと食堂に行ってしまう薄情者。誰とでも、それこそエデンを馬鹿にした子たちとでも話を合わせられる口上手。詐欺師みたいな男を想像した。
 だから、実際に自分の目で見て、困惑した。
 ある意味では、イメージ通りだった。成績は悪いままだし、エデンを敬遠していた村上や山本と連んで食堂に行くのも躊躇わない。そして、誰にでも世渡り上手の安っぽい笑顔を撒いて歩く。……ほたるに釣り合うわけがない、それなのに、ほたるの隣にいるそいつを見て、まったく違和感を覚えなかったのだ。
 このままじゃいけない、と警鐘が響いた。
 早く取り戻さないと、ほたるが連れて行かれてしまう。

 ……それを追いかけていたら、なぜかほたるとお弁当を作ってお茶の準備をして靴を選んで待ち合わせ場所に出向いて駅まで走って朝の電車に乗り込むことになったのだけど。
 本当に、思い通りにいかないことが多すぎる。

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