第10話 登頂

 山と言っても県境をまたぐわけではなく、都心から少し離れた地域の憩いの場で、亨も中学までに何度か母や妹と遊びに来た場所だった。けれど、小学校入学から寮で暮らしてきたほたるは名前しか知らないと言った。だから、亨に案内できてほたるたちにも楽しめる場所として、そこを選んだ。
 ただ、以前は登りきるとそれなりに息が上がっていたが、さすがは体育実技でスパルタ軍みたいな英才訓練を受け続けた高校生たちと言うべきか、あっさり辿り着いてしまった山頂でどこか物足りない表情を浮かべていた。というか登山路を目にした山本が最初に発した一言は「道があるんだ!」だった。聞けば、ジュニアハイスクールの林間学校では仙人が住んでいそうな山の奥で捜査隊員の奇襲を掻い潜るサバイバル生活を三日間続けたらしい。その流れだとハイスクールではアマゾンで一週間くらい過ごすのだろうか。誰か職員室に乗り込むべきではと、亨はうっすら生命の危険を覚えた。
 そんな調子だから、登頂の喜びはなんとなく薄く、早く出てきてしまったので昼食にも時間があった。まだ他に登山客の姿は見えず、軽食販売コーナーにすら人の気配がない。さて、ここからなにをどうやって楽しもうか、悩んでいた主催者・亨の肩に力強い掌が載せられた。
 振り向く亨に笑いかける村上の手には、真新しいバスケットボール。
 そしてその隣でサムズアップしてみせる山本が亨に差し出したのは、ドーナツをイメージしたデザインの、かわいいゴム製フリスビー。
「俺たちの体力を馬鹿にしちゃいけねぇ。こういう展開も想定しておくべきだぜ」
「こいつなら、お嬢さん方も満足してくれるだろう?」
「お前ら……!」
 それっぽい雰囲気に浸る男子高校生三名に構うことなく、三人のお嬢さんはさっさとレジャーシートを広げ、水分補給と小休憩のためのお茶を用意し始めていた。

  

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「エデン、疲れた?」
 美鈴がアイスティーのカップを差し出して訊ねた。エデンはそれを受け取って答える。
「大した道じゃなかったでしょ」
「そうじゃなくて、うるさくなかった?」
 あえて答えを逸らしたのに、美鈴は問いかけなおした。心の中で舌を出す。
「いつものことよ。……美鈴、楽しそうだったじゃない」
 意図せず突き放すような口調になってしまって、言ってすぐに後悔した。これではまるで、せっかく楽しんでいた美鈴を責めているみたいじゃないか。
 思った通り、美鈴は視線を下げて俯いてしまった。
「……ごめん」
「いや、違うの、そうじゃなくてさ」
 美鈴とほたるが楽しむのは構わない、むしろ大歓迎だ。二人を楽しませているのが亨だから気に入らないのだ。
「エデンも佐倉さんと話してみればいいのに」
 エデンの隣に腰を下ろしたほたるが、なんでもない風にそう言う。
 ほたるの隣なのに、居心地が悪い。
「無理だよ、あいつだって……」
「佐倉さんはエデンを悪く言ったりしないと思うわ」
 凛とした声を聞きたくなかった。
「……ほたる、エデンはまだ、佐倉さんのことよく知らないから」
 エデンの様子に気づいたらしい美鈴がほたるを止めようとするが、ほたるは妙に強情に話を続ける。
「エデン、佐倉さんを避けすぎよ。それじゃいつまでたっても誰のこともわからないわ。まずは挨拶からでも……」

 ピシャッ……

 ─── 空気が止まった気がした。誰の声も聞こえない。美鈴も、少し離れたところにいる亨たちも、
 アイスティーを顔面にぶちまけられたほたるも、時間が止まったみたいに動かなかった。
 胸のあたりからじわじわと溢れてくる黒い感情がエデンを蝕んでいく。
「『佐倉さん』、『佐倉さん』って……」
 いち早く動いたのは亨だった。「ちょおっと⁉ 大丈夫⁉」エデンを責めるでもなく、ほたるに駆け寄る亨と、弾かれたように「タオル……!」とカバンをまさぐる美鈴。
 慌てる二人に対して、当のほたるは何事もなかったかのようにポケットから自分のハンカチを取り出して、浴びせられた液体を拭う。エデンと視線を合わせ、話を続けろと目で促す。そんな余裕のある態度も、今は怒りを掻き立てるだけだった。
「転校生がそんなに大事?」
「なんで今になって勝手なことするの?」
「お世話係だからじゃないよね、いつも一緒に学校行くの」
「浮かれてたよね、電車に乗ったときもお弁当作ってたときも、メールでも」
「ずっと頑張ってたのに、一緒にいたくて我慢してたのに、なんであたしを遠ざける人たちと仲良くしようとするの?」

 駄目だ、泣く。

「なんでそんなに簡単に、あたしの居場所を他の子に譲っちゃったの‼」
 泣いたら負けだと思っていたから、泣く寸前でそれだけ叫んで、美鈴が揃えてくれていたらしい、きちんと並んだスニーカーを乱暴に突っかけて駆け出した。
「エデン!」
 美鈴が止めようとしてくれたけど、やっぱり逃げるしかなかった。
 遠巻きに事態を見守っていた山本たちが、「なんだアイツ」と言ったのが、はっきり聞こえた。

  

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 咄嗟に《千里眼》を発動したから、仲のよかった三人になにが起こったのか、亨だけはすぐに理解した。緑の深い方へ消えてしまったエデンも気になったが、まさか亨が追いかけるわけにもいかないので、まずは目の前のほたるだ。
「小野さん、大丈夫?」
「冷たいお茶ですから、なんでもありません」
 淡々と応じるのを見ると、ようやく近づく気になったらしい山本や村上も、ほたるが怒っているわけではないことだけはわかった。
 さらに進んで、美鈴はほたるの心情を言い当てる。
「ほたるが落ち込むのもわかるけど。エデンが人間不信なの知ってるくせに、無理やり引きずってきたほたるが強引なのよ」
 この言には亨たちも絶句した。美鈴はこの表情の薄い友人が落ち込んでいることも察した上で、追い討ちをかけるように苦言を呈したのである。
 ほたるはほんのわずかに視線を下げて、ポツリと漏らす。
「そうかしら」
「それはもちろん、私だってエデンのこと心配だけど、エデンにはエデンのペースがあるんだから。佐倉さんたち、もちろんいい人よ、知ってる。だけど、佐倉さんたちと話すかどうかはエデンが決めることでしょう。ほたるは気が短いから焦れったく思うかもしれないけど、エデンが自分から動くまで待たなくちゃいけなかったのよ」
 鈴が鳴るような声で語りかける言葉は、同学年だというのに亨よりずっと論理的で大人びていた。指摘は厳しいのにそばにいて小川のせせらぎを聞くみたいに心地良い、彼女の姉の姿が重なる。
 いつも顔を上げて堂々と先頭を行くほたるが、いつもはおどおどして頼りなく半歩後ろを付いていく美鈴を前に、叱られた子どものように俯いていた。本当は、これが彼女たちの『素』の姿なのかもしれないと、亨は思った。
「……わたし、エデンに謝らなくちゃ」
 少し間をおいて、ほたるが顔を上げたので、美鈴は少しだけ表情を緩めた。
「そうね。エデンも謝りたがってるでしょうけど、ああなったら素直に出てくるわけないから、探しに行きましょう」
 美鈴が立ち上がってほたるの手を引く。
 ほたるは、同級生の少女たちのやりとりを呆気にとられて見ていた亨たちに頭を下げた。
「わたしが強引だったから、エデンの無理が溜まって爆発してしまったんです。せっかく誘ってもらったのに、台無しにしてしまってごめんなさい」
「いや、別に小野さんのせいじゃ……」亨が頬を掻きつつ山本たちの方を振り返る。二人も、ほたるのせいだなんて最初から考えてもいなかった。
「それより早く探しに行った方がよくないか? 登山道は整備されてたけど仮にも山だぞ」
 山本はエデンが消えていった方に目をやる。整備された垣根の向こうは客が入って行くことを予定していない雑木林だ。
「マクレガーは隠れるのうまそうだから、感知系の探索役が必須だな」
 村上の言葉で思い出す。エデンの耳なら追いかける亨たちの足音も察知してしまうだろう。
「じゃあ、山本は小野さんと一緒に行って。俺は鏑木さんと探すから。村上は待機で、どちらかが戻ってきたら連絡ちょうだい」
 東京都内の小さな山だから携帯は繋がる。エデンがほたると一緒にいた亨を心良く思っていないことは重々承知していたから、ほたると組むのはやめておいた。山本は嗅覚が鋭敏な感知系だから、ほたるとともに。重力操作の物理系異能者である村上は、捜索には不向きだから今回は待機だ。
 ほたるも亨の意図を汲み取って頷く。
「それがいいですね。……ああ、美鈴。佐倉さんは感知系の能力も扱えるの」
「……そう、わかった」
 不思議そうな顔をしていた美鈴だったが、ほたるが保証したことで疑問を飲み込んだらしい。
 役割をすぐに決めて、エデンが山本と亨の感知範囲外に消えてしまう前に、少年たちは駆け出した。

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