ぼくの学校は箱の中

「わたしの学校は箱の中」の世界観で、別の少年視点の作品。


 

 目が覚めたらまず見るのは目覚まし時計。あと9分で6時。この時間なら親父たちはまだ寝ているなと安心したあとで、折角眠ってくれているソイツらを起こさないようこそこそと着替えてキッチンへ。シリアルバーのストックを見つけて2本ほど失敬する。朝と昼の食事を確保したら部屋に戻って端末の前へ。
 端末の電源を入れる。思っていたより大きな起動音にヒヤリとする。部屋が静かだから余計に音が響いた気がしただけで、親父たちの部屋まで届くわけがないのに。画面の向こうでくるくると無邪気に回っているメーカーのロゴに罪はないが、不機嫌を目一杯詰め込んだ視線で八つ当たりに睨みつけた。
 けれど端末はよく出来た奴で、前に使ったときと同じアプリケーションを勝手に開いてくれる。IDと名前、パスワードを入力するのはもはや決まりきったゲームのコマンドみたいな、あるいは、姉貴が自己研鑽だかなんだかで始めたピアノのフレーズみたいなもので、いつしか指が覚えてしまっていた。
 さて、学校に到着。誰もいない教室に入るのもつまらないので、一度図書室に寄って適当な本を借りることにした。24時間、コンピュータの司書が待機してくれている図書室で、最近読み始めたシリーズの続編を選択する。世界が黒い雨で包まれるずっと前、家の外を野良というネコが闊歩していた頃の話。
 ネコを含め、あらゆる動物は政府が管理する施設で種が途絶えないよう大事に大事に保護されて育てられている他は、よっぽどの大金持ちでないと自宅で飼育なんてできないから、ネコが家の外を平気な顔して歩いているだなんてトンデモ設定な気がしたけど、大昔はそれが当たり前だったらしい。
 大昔は人だって外を歩いていた。今では誰も外に出ない。大昔の科学者が天候操作に失敗した時から降り続ける黒い雨は一滴でも肌を溶かしてしまうし、体内に入れようものならすぐに胸と腹を灼かれて死んでしまう。雨を防ぐ装備はまだまだ開発途上で、市民には出回らない。だから人は外を歩けない。
 教室に戻ったらワトソン先生が教壇にいた。
「おはようございます」
『おはよう、リック。今日も早いですね』
 そう言うと、ワトソン先生は微笑んでくれた。ワトソン先生は図書室のデータを見ていたらしく、『今日は何の本を借りたんですか?』と興味深そうに訊ねた。
「えっと、ネコが人間観察する話」
 本を選ぶとき、司書が教えてくれた本の概要は、短縮してしまうとそんな感じだった。ワトソン先生は何の本かすぐにピンと来たようで、『随分古い本を借りてきましたね』と驚いていた。
「先生もこの本を知ってるの?」
『黒い雨が降り出すよりずっと前の本ですよ』
 朝礼まで読書を楽しんでくださいね、とワトソン先生が言い、ひとつ頷いて本を開く。大昔の本といえば世界政府から文化財に指定されているような、紙を贅沢に使って印刷したものを言ったらしいけど、今の本はすべてデータだけ。でも、大昔の名残で、今でも本は開くもの。表紙のドアの向こうには別世界。
 椅子を蹴り倒す音で現実の世界に強制送還された。今日も朝から親父が暴れている。マイクの精度を少し下げて、ちらほら見え始めたクラスメートに気づかれないようにした。
 学校にいる間は、親父もこの部屋に入って来ない。カメラに映ったが最後、学校から警察に連絡が行くことくらいはわかるらしい。
 学校は安心できる唯一の場所。政府はネコたちを保護するけど僕たちのことは保護しない。保護の制度はあるけど誰も通報しないから機能してない。
『リック、そろそろ朝礼ですよ』
 ウィンドウの端にワトソン先生からのコメントが現れたので、僕はネコが自由に生きてる夢の世界への扉をそっと閉じた。
 学校はあっという間に終わってしまって、雑談していたクラスメートもそろそろとログアウトし始めて、教室には僕とワトソン先生だけ残っていた。
『本は楽しかったですか?』
 ワトソン先生からのメッセージ。
 僕は少し考えて「難しかった」と答えた。
『時代背景を知っておくともっと楽しいですよ』
「昔の人たちには夢があったんだね。ネコになりきって本を書くとか」
『今は違いますか?』
「だって外は雨だし」
 窓の向こうは真っ暗闇で、一軒隣に人が生きているのかもわからない。
『……でも、あなたにも夢があるでしょう?』
ワトソン先生は寂しげに笑っている。先生は気づいてるんだ。
 早く登校するのも、ずっと居残り続けるのも、全部あの親父たちから離れるためで。
 でも、先生は気づいていても、証拠がないと通報できない。僕が言わない限りは証拠はないし、僕も助けを求めるつもりはない。
 まあ、僕もいつかはここを出ていくつもりだけど。
『大学で化学を勉強するんでしょう?』
「そうだよ」僕は化学者になって、黒い雨を止めるんだ。そうしたら、僕みたいな子たちだって外に逃げて行ける。もっと自由になれるはずだ。
「僕の成績なら行けるかな?」
『十分ですよ、努力を怠らなければ』
 先生が勇気づけてくれたら、ちょっとだけ元気が出た。
「さよなら先生,また明日」
 ログアウト画面をしばらく眺めていたあと、部屋のドアを開けた。狭い隙間からするりと白い毛の生き物が侵入する。
「ただいま、リリィ」
「にゃぁ」
 リリィは不満げに答えた。親父が見栄のために買ったネコは僕の唯一の家族で、この子を置いては逃げられない。
「いつか一緒に逃げようね?」
 学校は僕を親父から守ってくれる場所で、親父から逃げるための知識を得る場所。
 いつか、雨を恐れることなく外に出られるようになったなら、リリィを連れて外を歩こう。この家のドアを開けられるようになったなら。

 ネコを抱いた少年は、その白い毛に透明な涙を零した。

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