第1話 コーヒー

  

 すぐ隣で震える、歳上の、初めてのお友達を庇うために前に出た。けれどそれは、友情だなんて純粋で綺麗なものではなく、あの人に”理想のわたし”を見て欲しいという、なんとも自分本位でつまらない、見栄っぱりな理由からだった。
 あの人にわたしを見て欲しい。わたしだけを見ていて欲しい。緋色に輝く金の瞳が、ただ自分に向けられるだけで嬉しかった。それなのに、あの人の瞳は、もっぱら隣のお友達を映していた。今ならわかる、あれは嫉妬という怪物だ。怪物が囁いたのだ。『この子を守り切った「わたし」なら、きっとあの人も見てくれる』と。ひょっとしたら、この窮屈な世界から、わたしのことも連れ出してくれるかもしれない、と。要はお友達の存在を利用したのだ。この胸の内側にある浅知恵を、友情なんて呼べるわけがない。
 数人の隊員が銃を構えて、わたしたちが隠れている植木の陰を警戒している。飛針はすでに錬成してある。いざとなればこれを使う覚悟もしていた。これを使えばもう、帰る場所はなくなる。わたしはここを奇跡的に逃げ延びるか、あるいは学校の誰にも知られないまま、SLWの牢獄に閉じ込められるしかないのだ。
「ほたる、ダメだよ、危ないから……」
 黒くて長い髪を、頭の高いところで結ったお友達が袖を引っ張る。
 なんて綺麗なんだろう。昔のわたしみたいな偽物の黒じゃない、バレエの踊り子が着ける羽飾りみたいな髪も。わたしの手の針よりも昏いのに、鮮やかに世界を映す紅の瞳も。この子のすべてが愛しくて憎らしくて、大好きで大嫌い。
「平気よ、さくらちゃん」
 あの人が最後に見るわたしが、理想のわたしであれたなら。
 わたしは、これからどんなことがあったって、生きていけるから。

  

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 用意されたコーヒーには手を付ける気になれなかった。別にコーヒーが苦手というわけではなく、目の前で倒れたあの男の、頭から噴き出した血液を思い出したからで。これはしばらくコーヒー飲めないな、と香ばしい匂いだけ頂戴する。
「トオル。ホタルから離れた件は今となっては仕方がないし、状況が状況だったようだから責めはしないよ。まあ、今後は気をつけてくれ」
「はい……」
 談話室かなにかだろうか、病院らしい器具などひとつも置いていない部屋には、須藤と亨のふたりだけ。亨は今回眼にしたすべてを須藤に伝えなければならない。
「結局、古賀はどうしてホタルを……」
「古賀の記憶に、最後に頭を打って死んだ捜査隊員が出てきました。そいつに、小野さんを殺せば自由にしてやる、逆らったら殺すって脅されてたんです。でも、幸いというか、古賀は小心者で小野さんを殺すには至らなかった。だから、口封じのために殺されました」
 そう、今回は古賀に最低限の規範意識、殺人という重罪への恐怖があったから、ほたるは運よく救われた。これがいつかの千里眼の女子高生や変幻自在の男や倫理観喪失研究者たちだったらその場で殺されていたかもしれない。
「その捜査隊員は久本武。制服を着用していたが、実際は四ヶ月前に取調べにおける異能の不正使用で懲戒免職されている」
 ここで須藤はコーヒーを一口含んで息を吐く。「久本の意識は視えたか?」
 亨は首を横に振った。
「残念ですけど、久本の意識は視えませんでした。意識がなくなってて。眠っているというか…… もう死んでいたというか……」
 死んだ人間が操り人形のように動いていた、だなんて、気味の悪さに吐き気がする。あまり思い出したくない感覚だった。精神衛生上よろしくないそれをさっさと頭から追い出す。
「須藤さん、俺思うんです。古賀は、初めから期待されていなかったんじゃないかって」
 古賀は臆病者だった。そんな男に、本気で人殺しなんて依頼するだろうか。犯罪者に頼むなら、本物の殺人犯を使った方がいくらか成功しそうだと単純に思う。
「小野さんを連れ出して、仲間からの銃撃で追い詰めるのが目的で、殺せるかどうかはどうでもよかったのかもしれない。そんなサクッと小野さんを殺しちゃったら、……緋の心臓?への繋がりは消えちゃうわけですし」
 須藤も深くうなずいた。
「同感だ。おそらくは保釈を認めても不自然ではないくらいの罪状で、ある程度死ににくい、そしてホタルに危害を加えても殺しはできない小者を選んだんだろう」
 そう考えると、もちろん古賀だって許すつもりはないけれど、古賀を使って姿を見せずに目的を果たした犯人のやり口に吐き気とともに義憤を覚えた。
 部屋に沈黙が下りる。少年と上司はともに腹に収まらない怒りを持て余していて、しかしそれを互いにぶつけるわけにもいかなかった。かといって、このまま黙り込んでいてもなにも始まらないのであるが。
「……ちょっと、たいちょー」
 だから、蝶番の軋む音とともに登場したエデンに、亨も須藤も本当は少しだけ感謝していたのだ。
「もう遅いし帰ろうよー、みんな待ってるんだし」
「エデン、先に帰ったんじゃねぇの?」
 亨が首を傾げる。てっきり治療の終わったほたるに付き添って帰ったものと思っていた。
 その反応が、待ちくたびれていたエデンの気に食わなかったらしい。
「はぁ!? 待っててあげてるのに何よそれ! だいたいアンタほぼ怪我してないじゃん、話なら支部に帰ってからでもいいでしょ!?」
 須藤が顔を顰めて口元に人差し指を立てる。ここは病院である。入院患者たちの部屋からは離れているものの、エデンの高い声は静かな廊下によく響いた。無言の注意を受けたエデンは、不満を隠しきれてはいなかったもののひとまず黙る。
「そうだな、早めに確認したかったことがあったんだが、もう終わった。詳しいことはまた明日にでも聞かせてくれ。トオル、引き止めて悪かったな」
「いいえ!」
 須藤は一度腕時計に目をやってから、謝罪とともに亨を解放した。亨としても今日の出来事を一人で抱え込むとなると気が重かったので、須藤に打ち明けることができてほっとしていた。支部から駆けつけてくれた上官には感謝しかない。
「じゃあ、明日の放課後、待機室に伺います」
「隊長、おやすみなさーい!」
 エデンはパタパタと手を振って、亨を伴い部屋を出ていく。
「おやすみ」須藤の方がよほど疲れているはずなのに、退席する亨たちに向ける声はひたすら優しく、亨たちを労ろうという思いに溢れていた。
 二度と彼の信頼に背く失態は犯すまいと、亨は静かに胸に誓った。

  

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 あたまがぼうっとして、胸がいっぱいだった。
 あの人の自由を奪われるくらいなら心の中に仕舞い込むことを選んだわたしだったのに、その彼が来てくれると聞いたとき、とんでもないことだけれど、本当は喜んでしまっていた。
 わたしは本当に悪い子だ。悪魔の子だ。

『大丈夫。理仁はほたるのことも好きになってくれると思う』

 黒く揺れる絹糸の髪の女の子が教えてくれた。

『だって、あいつは魔王だもの。神様みたいにいい子ばかり依怙贔屓したりしないわ。憎まれっ子も鬼の子も、きっと悪魔の子だって連れて行ってくれる』

 鬼の子と呼ばれていたその子は、紅い瞳をちょっとだけ細めて。

『ね、ほたる。あたしたちと一緒に行こう?』

 ……結局、あのときは一緒に行けなかったけれど。
 陛下はわたしの中に居てくれた。わたしを守り続けてくれていた。約束を忘れずにいてくれた。『貴女を守る』と、そう言ってくれたのは嘘じゃなかった。だから、わたしが陛下を恨むだなんてありえない。今度はわたしが、陛下をお守りする番だ。

 須藤隊長の命により、わたしは、”緋の心臓” の所有者・魔王陛下の拘束に同行することになった。
 わたしは今度こそ、陛下のために戦うのだ。

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