第2話 悪魔

  

 四条理仁は、ノアの箱舟という異能者集団と行動をともにしていた。ノアの箱舟は社会に溶け込むことのできなかった異能者たちの集まりで、メンバーの中にはSLWにより危険人物と認定されている者もいる。そうでないメンバーも、異能者を隔離し兵士に育て上げようとするSLWの方針に反発する者、SLWによる隔離政策から逃げ出してきた者が多数を占める。
 よって、理仁がSLWに出頭すると言ったとき、仲間たちは動揺した。引き留めようとする者もいた。それは理仁の身を案じての行為であり、また、箱舟の内部情報が漏れるのを恐れての行為でもあった。
 理仁を侮っているわけでも信用していないわけでもないが、箱舟に乗り合わせた多くの異能者たちにとって、SLWは敵視すべき組織であり、そうであるからこそ、箱舟の長であることを示す”六角”の名を継承した老人は理仁の決断に簡単に頷くことはできなかったのである。
「とはいえ、……」
 六角茂信はしかし、理仁の頑なさも正確に把握していた。この道を行くと決めたならその先で鬼が待ち受けていようが断崖絶壁が聳えていようが突き進むのが四条理仁という男である。常人ならざるが故の強さに支えられた彼の生き方は、六角に言わせれば「無謀」であるし、友恵に言わせれば「傲慢」であるし、聖や桜に言わせれば「ただの馬鹿」でしかないのだが。
 そしてさらに厄介なのは、理仁が最も信頼を置く友人・桜に、彼の出頭を止めようとする意思がないことであった。それどころか彼を送り出そうとしているのだから、仲違いでもしたのかと要らぬ心配をしたくらいである。
 桜が理仁を送り出そうとするその意図を、最初に理解したのは育て親とも呼ぶべき友恵であった。
「桜はあたくしの後継として魔獣の称を背負うと約し、箱舟へ乗り込んだ。だからあの子は箱舟から降りることはできない。
 けれど理仁はただの同乗者。あたくしたちは桜に請われ彼を船に乗せていただけで、彼は本来であれば箱舟に居るはずのなかった存在。言うなれば桜の客人。
 第十九代ノア、六角茂信。貴方が守るべきは箱舟の子どもたちです」
 すでに友恵は、六角よりも冷徹に、答えを導き出していた。
 そう。魔王陛下がノアの箱舟と合流したのは、幼き日の桜の懇願が理由だった。
 あの日の出来事は、目を瞑れば瞼の裏で鮮明に蘇る。

 幼いながらに戦う術と理由を抱え、自身の身体より重い得物を抱えていた少女。
 長すぎた放浪の果てに、生きている意味すら見失っていた、がらんどうの魔王。

 少女は魔獣と呼ばれていた友恵を前にしても、決して臆しなかった。
 ただ、六角たちの前で武器を捨て、首を垂れた。
『お願いです。こいつを守ってあげてください。
 こいつは何も持ってないの。こいつがいつか、一人で立てるようになるまで。
 あたし一人じゃ無理だから。あたしはここで、何でもするから……!』
 二人の間で何があったのか、当時の友恵たちには知る由もなかった。
 だが、六角と友恵は桜の願いを聞き入れた。
 理由は単純。救いを求める異能者に応えるのが、ノアの箱舟の存在意義だったのだから。
 逆をいえば、救いを求めなかった理仁に、ノアの箱舟は応えることができなかった。

 それは今でも変わらない。理仁は他人を救うことは考えても、自分が救われることを誰かに願うなど思いつきもしない。だから理仁はどれだけ長い期間を箱舟で過ごしても、箱舟の被保護者とはなりえなかった。
 当然である。彼は完全無欠の魔王陛下なのだから。誰かの庇護下に置かれるなどありえない。
 そうであるならば、六角が下すべき決断は決まっていた。

「どこへなりとも、往くがいい。ただし、我らの箱舟の内情を露にすることだけは、決して許さぬ」

「無論。貴方達には感謝している。心優しき箱舟の盟友」
 緋色に輝く金の瞳は、六角、友恵を映したあと、隣に控えていた友人に向けられる。
「桜。今までありがとう」
「こちらこそ。これから、あんたはあんたで頑張るのよ」

 ああ、どうして。
 なぜ、この子どもたちは、相手を慮ることで、互いに傷つく選択しかできないのだろう。
 六角の深い、深い溜め息を、友恵だけが聞いていた。

  

   ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

  

 通学路にある公園で、わたしは黒い魔王陛下と、女の子に出逢った。

 この白い髪がすべての原因だったのだと思う。
 お母さんと同じ白い髪はどこへ行っても目立って、今よりもっと小さい頃は近所の子たちに引っ張っられていじめられた。

『こいつ変な髪!』
『知ってる、おかあさんが、こいつは悪魔の子だって言ってた!』
『悪魔が来たぞ、逃げろー!』

 わたしは悪魔の子じゃない、お母さんの子よ。
 何度言っても聞いてもらえなくて。
 近所のお母さんたちも、誰も止めてくれなかった。

『嫌ね、あの子。うちの子が髪を引っ張っても泣きもしない』
『気味が悪いわ。病気じゃないでしょうね』
『近づいちゃダメよ。あの子のお母さん、変な人だから』

 お母さんは変じゃない、わたしだって変じゃない。
 お母さんは優しい人だ。わたしのたったひとりの家族だ。

『ほたる、外に出ちゃ駄目よ』
『またいじめられちゃうわ』
『お母さんと一緒にいましょう』

 お母さんはわたしの髪を黒く染めてくれた。
 普通になるためのおまじないだと、丁寧に、丁寧に。

『普通に生んであげられなくて、ごめんね』

 ……わたし、普通じゃないのかな。
 それって、やっぱり変ってことなのかな。わたしは悪魔の子なのかな。
 泣いてわたしに倒れかかるお母さんを抱き締め返した。お母さんは『ごめんね』と言いながら死んでいった。

『母親が死んだのに顔色一つ変えないなんて、不気味な子だわ』
『こんな時になっても、あの男は出てこないのね』
『沙羅が狂ったのはあの男のせいよ。悪魔のような男だわ』
『どうせなら、悪魔の子どもも連れて行ってくれればよかったのにね』

 お母さんのお葬式に、お父さんは来なかった。
 初めて会う親戚の人たちは、わたしを見ると嫌な顔をした。
 しょうがない。だってわたしは、本当に悪魔の子だったみたいだから。

 この髪を黒く染めてくれていたおかあさんはいなくなってしまって、頼る宛のなかったわたしは一人、雪国から東京の学校に引き取られた。学校は髪を染めるのが禁止だったから、寮のおばさんたちの手で、髪に染み付いた黒はきれいに洗い流されてしまった。お母さんとの思い出がひとつ、消えてしまったような気がして、その時ようやく、胸が悲しみでいっぱいになった。当たり前だ。わたしは、どんなに変だったとしても、お母さんのことが好きだった。

 ――入学式から三ヶ月もすれば、髪のことをとやかく言われても反応しないわたしに、クラスの子たちは飽きたようだった。すぐ後ろの席の鏑木さんという子が、時々話しかけてくるくらいで、わたしはほとんどの時間を一人で過ごしていた。
 その日の朝は、前の晩にいつの間にか眠り込んでしまって、いつもより随分早く目が覚めてしまった。そんな事情がなければ、夏のはじまり、太陽が早く昇る季節とはいっても、朝の六時から散歩をしようだなんて思いつかなかったに違いない。けれどそれが、わたしの人生を変えたのだ。

『済まない、君』

 公園の前を通ったら、突然話しかけられた。
 低く、よく通る落ち着いた声。
 大人の男の人なんて学校の先生くらいしか知らなかったけれど、普通ではない引力のある声だった。
 そして、顔を見上げようとしたら首が痛くなってしまいそうなくらい背が高くて、その顔も、黒い髪に隠されてほとんど見えなかった。ただ、ちらりと見えた淡い緋色をたたえる金色の瞳を、綺麗だと思った。
 彼は髪だけでなく、身につけている洋服も全てが黒かった。本当は少しだけ怖かった。この人が普通でないことは直感でわかったから。
 でも、それよりも、彼と話をしたいと思った。悲しいことも幸せなことも、なにも起こらないこの平坦な日々を、どんな形にでもよかった、変えてくれるきっかけが欲しかった。そして彼には、わたしの人生をひっくり返してくれるくらいの力があるという確信があった。

『あの花の名を知りたいのだが』

 彼は、公園の真ん中を指差した。そこには女の子が一人、枝の先の花をしげしげと見つめていた。
 わたしもその花の名前は知らなかった。花には興味もなかったから、今までそこに木があることにすら気づいていなかった。
 もちろん、そんなことは言えない。わたしは彼との話を続けるために、子どもらしい知恵を巡らせた。

『わたしは知らないけれど、図書館で調べればわかるかもしれません。調べてくるので、明日、またここに来てくれませんか』

 彼は『そこまでさせる程のことではない』と首を振った。けれど、少し間を開けて『だが、』と続けた。

『彼女はここを気に入ったらしい。だから、明日もまた来よう』

 わたしはもう一度、植木の方を見た。正確には、植木の下の女の子を。
 綺麗に結い上げられた黒い髪は、風になびいてさらさらと、羽飾りのように揺れていた。白いワンピースと同じくらい白い肌が、惜しげもなく朝陽にさらされていて。それは見惚れるくらい美しい、絵画のような光景だった。

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