第11話 能美廣光

  

 人でなし、と言われた。
 忘れそうになっていた、かつての苦悩。やはり自分は人ではないのかもしれない。そんな苦しみを、いつしか気にも留めなくなっていた。忘れてはならない罪の意識が薄れていたのだろうか。


 四条理仁は、籍上の名を能美廣光という。
 父と母、それに歳の離れた三人の弟妹を持つ、あの時代では特に珍しくもない、貧しい家に生まれた青年だった。
 父は頭もよく優しかったが、身体が弱く、よく伏せっていたのを覚えている。母は長い間看病し続けたものの、廣光が十になる前に伴侶を失った。それからは、女手一つで四人の子どもを育てた。礼儀作法に厳しく、信仰心は清らかで、愛情深い女性だった。
 廣光が二十歳になってすぐ、大きな戦争が始まった。母と弟妹たちを守らなければと、自ら志願して戦地へ降り立った。
 どこでどれだけ殺したのか、正直な話、ひとつも覚えていない。数えるだなんて発想は初めからなかった。屠殺場で家畜を解体するように淡々と、指示通りに人の命を摘み取った。そうしなければ殺されるのは自分で、苦しむのは本土にいる家族だったから。
 奪ったものが多過ぎて、自分からもなにかが失われたことに気づかない。失ったものは確かにあったのに、それを口にするのは禁忌で、気づいたところで取り戻すだなんてできっこないし、そんな資格は未来永劫失っていた。
 そんな戦中での一番の深傷は、二回目の実戦で右の鎖骨下を撃ち抜いた銃創だったと思う。いくら吸い込んでも酸素が激痛とともに抜けていくような地獄。このまま死ぬのかと思うと虚しくて悔しくて、まだ国のために働けていない、まだ母と弟妹を残しては死ねない、その一心で痛みに耐えたが、戦医も諦めたのか物資が不足していたのか、とにかく廣光は早々に見切りをつけられた。
 どれくらい伏せっていただろう、泣くこともできずにいたあの日々の中で、朦朧とした視界に、緋色の影を見た、気がする。
『……、……………?』
 それは言葉ではなかったが、確かに問いかけだった。声はなかったが、確かに耳に届いた。
『まだ、戦いますか?』
 苦しいのに。そう言外に含んだ問いかけに、廣光は迷いなく頷いた。心にあったのは家族のことだけ。彼らを置いて、まだ死ねない。
 その時期を境に、痛みが引いて、身体が軽くなった。医師は奇跡だと言って、廣光を戦場へ送り返した。なにかに救われた命、無駄にするものかと、進んで前線を駆け抜けた。
 舞い戻った廣光の活躍は目覚ましかった。無論、平凡な青年が付け焼き刃で教え込まれた技術などたかが知れていたが、どれほどの銃弾を浴びようと一切怯むことなく突き進む姿は、部隊の士気を昂め、鼓舞するものに違いなかった。
 その男は、供給が途絶えた極寒の野営地で一月半の間水も飲まずに生き延びた。
 その男は、火薬庫が爆発した渦中に居ながら火傷ひとつ負わず生還した。
 その男は、疫病が蔓延った植民地でただ一人の生存者として発見された。
 ――奇跡を重ねるうち、廣光の武勇は畏怖の響きをもって語られるようになった。戦争が終わる頃には、部隊の仲間ですら廣光を化け物のように遠巻きに見ていた。
 辛くなかったといえば嘘になるが、廣光はそれでもよかった。国のため、家族のため。この身が役に立ったのなら、故郷へ帰ることはできる。
 間もなく終戦が宣言され、廣光は実家に戻った。
 弟妹はたくましく成長していて、母は少し白髪が増えたものの優しく微笑んで廣光を迎え入れた。それから、以前と大きくは変わらない生活が一年、十年、二十年と続いた。
 弟は亡父方の後継のなかった本家に養子として引き取られ、妹たちは嫁に出た。母の白髪はますます増えて、目が見えづらいと苦笑した。

 たた一人、廣光だけが、二十半ばの姿でそこにいた。

 明らかに弟妹より若々しい青年を、幼い頃は可愛がってくれた近隣の住民たちですら怪しんだ。
『母さん、兄さんはおかしいわ』
 上の妹が最初だった。
『戦争から戻ってきて以来、姿がまったく変わらないじゃないの。まるで物の怪か亡霊だと、主人の実家で問い詰められるの』
 下の妹は母に泣きついた。
『もう嫌よ、妖怪の妹だなんて言われて、石を投げつけられたの。兄さんはどこかへやるべきよ。母さんまで変に見られるわ』
 本家から伯父と弟が訪ねてきた。
『母さん、兄さんを隠そう。本家にも迷惑がかかる。兄さんのことだ、どうせ黙って聞くさ』
 母はちょこんと座り込んで、『まあまあ、落ち着いて』などと笑いながら自信たっぷりに答えた。
『廣光さんにはね、神様がついているのですよ』
 ある夜、廣光は突然訪ねてきた弟に叩き起こされた。
『ここを出るんだ。母さんと兄さんはここでは暮らせない。古屋を本家で借り上げた、そこへ移るんだ』
 そうか、ここでは暮らせないのか。廣光は他人事みたいに納得して、母とともに思い出の詰まった実家を出た。母は嫌だ嫌だと首を縦に振らなかったが、なかば無理矢理に連れ出した。それが生まれ育った故郷との別れだった。
 連れてこられた古い家は、辛うじて屋根と壁が残っているだけで、お世辞にも人が住める場所とは言えない有様だった。不憫に思った弟が、他人に頼んで何度か家の修理をさせたものの、弟や妹がそこへ自ら足を運ぶことはなかった。
 母との生活はそれまで通りで、ただし彼女の目は日に日に悪くなっていったし、白髪は少しずつ抜け始めた。
 その頃からだったと思う。老いていく肉親を見るのが辛くなってきたのは。
『廣光さん』縁側に腰掛けた息子を、着物にくるまった母が呼ぶ。『わたしの大事な廣光さん』
 母の言葉は、いつしか意思伝達の役目を果たさなくなって、相手もない虚空に同じ台詞ばかり繰り返すようになっていた。
『廣光さん。わたしの大事な廣光さん』
 もう、母の終わりは近いのかもしれない。そんなことを廣光は考え始めた。
『あなたの神様はなんというの?』
 神様なんていないのです。ここにいるのはただの化け物。本当なら弟妹たちに囲まれて安らかに眠ることができたはずの母を、辺境の地へ閉じ込めた醜い魔物。
 口に出したら堪えていた何かが溢れてきそうで、廣光は顔を覆った。
『ねえ、ひろみつさん』
 そんな廣光の顔をそっと皺だらけの両の手で包み、覗き込む母の目は、優しい光を讃えているけれど、もう光を映さない。
『わたしの、……』
 それなのに、母は涙を湛えてこう言った。

  

『可哀想な子……』
  
 ――それが母の最期の言葉だった。
 母は、廣光を憐みながら死んでいった。
 神仏を信じ、人を愛した、何も憂うことなく笑って逝くことが許された人のはずだった。
 いっそのこと、あのとき自分が助からなければ、違っていたのかもしれない。国のために命を散らした、それで終わっていればよかった。往生際悪く帰ってきた廣光は母の心に暗翳を落としただけだった。
 廣光は自分を生かした何者かを憎んだ。それが母の信じた神だというなら、その神とやらは信心深い彼女を辺境の地に閉じ込めて、こんな惨めな最期を迎えさせた、魔神か悪神に違いなかった。
「ああ、そうか」
 自分の中に魔神が巣食っているのなら。
 その器である自分は、『魔王』に違いなかった。

 母の遺体は、食料を運んできた弟の使いに発見され、廣光から引き離された。廣光は一人、葬儀に参列することも許されず、古屋に留まるしかなかった。
 季節が数十回周り、いつしか、定期的に訪ねてきていた本家の使いも姿を見せなくなった。とうとう忘れられたのか、などと考えていたとき、古屋の貸主だという寺の住職が現れた。
 廣光は寺へ招かれ、そこで知った。
 弟は数年前に亡くなっていた。
 妹たちは生きてはいたが、もう意思の疎通は難しいと伝えられた。
(本当に一人になってしまった)
 位牌となった家族を前に、廣光はただ、信じてもいない神だか仏だかへ願った。
 彼らが憂いなく眠れるように。
 自分にそんな資格があるのかわからないけれど、願わずにはいられなかった。
 六十年間、願い続けた。
 同じ呪いに苛まれた二人の異能者に叩き起こされるまで、廣光は生きたまま永眠っていた。

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